GⅠレース/宝塚記念 のバックアップ(No.3)


歴史

宝塚記念は、戦後復興の低迷不振に喘ぐ阪神競馬場を日本中央競馬会(NCK・後のJRA)が買収し、1960年にようやく新たなスタンドが落成した阪神競馬場にて創設。

1956年に中山競馬場で創始された中山グランプリ(後の有馬記念)と同様、ファンの人気投票によって出走馬を募る形式を取る。

施行距離は当初1800mで行われたが、翌1961年からは2000m、さらに1966年からは2200mに延長された。

出走条件も当初は「4歳以上」と定められていたが、6月末~7月上旬であった開催時期が1968年から1ヶ月前倒しとなり、これに伴い「5歳以上」に変更された。

1987年からは再び「4歳以上」に戻され、開催時期も7月上旬に繰り下げられて東京優駿や優駿牝馬と調整し、それらの競走で活躍した4歳馬の出走登録が容易になるよう便宜を図った。

2000年からは開催時期を6月下旬とし、「春の中距離実力日本一」決定戦と位置づけられるようになった。

2001年に国際GⅠに指定され、外国馬の出走が可能となる。

2011年にアメリカ競馬の祭典、ブリーダーズカップ(BC)のトライアル競走ブリーダーズカップ・チャレンジ(BCC)に指定を受け、優勝馬にはBCターフへの優先出走権が与えられる。

時期タイトルレース場バ場距離根幹向き
6月後半宝塚記念阪神中距離2200右・内
6月後半宝塚記念阪神中距離2200右・内

春シニア三冠

2017年より大阪杯、天皇賞(春)とともに同一年に行われる3競走を全て優勝した馬には褒賞金が贈られることに由来する。

競技場

阪神競馬場・芝2200m。

内回りコースを使用し、コースを1周強回る。

正面スタンド前の直線右端、外回りの4コーナー出口からのスタートで、1コーナーまでの距離は525m。

3~4コーナーのカーブは内回りにしてはゆったりしている。

最後の直線は356.5m(Aコース時)で、残り200m~80mの間に高低差1.8mの急坂が待ち構えている。

 

京都競馬場・芝2200m、外回りコースを使用。

3コーナーにある、高低差4.3mの坂が大きな特徴。

向正面から上り、3コーナー途中で一気に下る。

この下り坂で勢いをつけ直線に入るので、外に振られる馬が多く馬群がバラけやすい。

トップスピードに乗るまでが遅い馬にはマクリ差し戦法が有効だが、基本的に内で我慢してイン差しをするのがベスト。その為、内枠が有利。

また、芝質が軽い事が多く、高速決着になりやすい。

歴代優勝馬

回数施行年競走名競馬場距離優勝馬性齢タイム
第1回1960宝塚記念阪神1800mホマレーヒロ牡51:49.6
第2回19612000mシーザー牡52:04.6
第3回1962コダマ牡62:03.4
第4回1963リユウフオーレル牡52:02.1
第5回1964ヒカルポーラ牡62:03.3
第6回1965シンザン牡52:06.3
第7回1966京都2200mエイトクラウン牝52:15.0
第8回1967阪神タイヨウ牡52:19.4
第9回1968ヒカルタカイ牡52:14.7
第10回1969京都ダテホーライ牡52:16.1
第11回1970阪神スピードシンボリ牡82:13.3
第12回1971メジロムサシ牡52:17.3
第13回1972ショウフウミドリ牡72:19.9
第14回1973ハマノパレード牡52:12.7
第15回1974京都ハイセイコー牡52:12.9
第16回1975阪神ナオキ牡72:16.7
第17回1976京都フジノパーシア牡62:17.5
第18回1977阪神トウショウボーイ牡52:13.0
第19回1978エリモジョージ牡72:14.2
第20回1979サクラショウリ牡52:12.4
第21回1980中京2400mテルテンリュウ牡52:31.9
第22回1981阪神2200mカツアール牡62:14.1
第23回1982モンテプリンス牡62:12.6
第24回1983ハギノカムイオー牡52:12.1
第25回1984カツラギエース牡52:12.4
第26回1985スズカコバン牡62:15.9
第27回1986パーシャンボーイ牡52:14.4
第28回1987スズパレード牡72:12.3
第29回1988タマモクロス牡52:13.2
第30回1989イナリワン牡62:14.0
第31回1990オサイチジョージ牡52:14.0
第32回1991京都メジロライアン牡52:13.6
第33回1992阪神メジロパーマー牡62:18.6
第34回1993メジロマックイーン牡72:17.7
第35回1994ビワハヤヒデ牡52:11.2
第36回1995京都ダンツシアトル牡62:10.2
第37回1996阪神マヤノトップガン牡52:12.0
第38回1997マーベラスサンデー牡62:11.9
第39回1998サイレンススズカ牡52:11.9
第40回1999グラスワンダー牡52:12.1
第41回2000テイエムオペラオー牡52:13.8
第42回2001メイショウドトウ牡52:11.7
第43回2002ダンツフレーム牡42:12.9
第44回2003ヒシミラクル牡42:12.0
第45回2004タップダンスシチー牡72:11.1
第46回2005スイープトウショウ牝42:11.5
第47回2006京都ディープインパクト牡42:13.0
第48回2007阪神アドマイヤムーン牡42:12.4
第49回2008エイシンデピュティ牡62:15.3
第50回2009ドリームジャーニー牡52:11.3
第51回2010ナカヤマフェスタ牡42:13.0
第52回2011アーネストリー牡62:10.1
第53回2012オルフェーヴル牡42:10.9
第54回2013ゴールドシップ牡42:13.2
第55回2014ゴールドシップ牡52:13.9
第56回2015ラブリーデイ牡52:14.4
第57回2016マリアライト牝52:12.8
第58回2017サトノクラウン牡52:11.4
第59回2018ミッキーロケット牡52:11.6
第60回2019リスグラシュー牝52:10.8
第61回2020クロノジェネシス牝42:13.5
第62回2021クロノジェネシス牝52:10.9

歴代ファン投票1位獲得馬

回数開催年馬名性齢着順
第1回1960コダマ牡4不出走
第2回1961シーザー牡5優勝
第3回1962コダマ牡6優勝
第4回1963リユウフオーレル牡5優勝
第5回1964リユウフオーレル牡63着
第6回1965シンザン牡5優勝
第7回1966キーストン牡5不出走
第8回1967ニホンピローエース牡5不出走
第9回1968リュウファーロス牡6不出走
第10回1969アサカオー牡5不出走
第11回1970リキエイカン牡55着
第12回1971ダテテンリュウ牡5不出走
第13回1972アカネテンリュウ牡7不出走
第14回1973タイテエム牡52着
第15回1974タケホープ牡5不出走
第16回1975キタノカチドキ牡5不出走
第17回1976ロングホーク牡52着
第18回1977テンポイント牡52着
第19回1978グリーングラス牡62着
第20回1979サクラショウリ牡5優勝
第21回1980シービークロス牡6不出走
第22回1981カツラノハイセイコ牡62着
第23回1982モンテプリンス牡6優勝
第24回1983アンバーシャダイ牡7不出走
第25回1984ミスターシービー牡5不出走
第26回1985シンボリルドルフ牡5取消
第27回1986スダホーク牡55着
第28回1987ミホシンザン牡6不出走
第29回1988タマモクロス牡5優勝
第30回1989ヤエノムテキ牡57着
第31回1990オグリキャップ牡62着
第32回1991メジロマックイーン牡52着
第33回1992メジロマックイーン牡6不出走
第34回1993メジロマックイーン牡7優勝
第35回1994ビワハヤヒデ牡5優勝
第36回1995ライスシャワー牡7競走中止
第37回1996ナリタブライアン牡6不出走
第38回1997マーベラスサンデー牡6優勝
第39回1998エアグルーヴ牝63着
第40回1999スペシャルウィーク牡52着
第41回2000テイエムオペラオー牡5優勝
第42回2001テイエムオペラオー牡52着
第43回2002ジャングルポケット牡4不出走
第44回2003シンボリクリスエス牡45着
第45回2004リンカーン牡43着
第46回2005ゼンノロブロイ牡53着
第47回2006ディープインパクト牡4優勝
第48回2007メイショウサムソン牡42着
第49回2008ウオッカ牝4不出走
第50回2009ウオッカ牝5不出走
第51回2010ブエナビスタ牝42着
第52回2011ブエナビスタ牝52着
第53回2012オルフェーヴル牡4優勝
第54回2013オルフェーヴル牡5不出走
第55回2014ゴールドシップ牡5優勝
第56回2015ゴールドシップ牡615着
第57回2016キタサンブラック牡43着
第58回2017キタサンブラック牡59着
第59回2018サトノダイヤモンド牡56着
第60回2019アーモンドアイ牝4不出走
第61回2020アーモンドアイ牝5不出走
第62回2021クロノジェネシス牝5優勝
  • 1985年、シンボリルドルフの「出走取消」
    シンボリルドルフはレース前日、阪神競馬場の杜撰な芝の張替えによって芝がはがれてダートがむき出しになった部分であわや落馬かという転倒をしたことが原因で左肩跛行を発症、出走を取り消した。
    シンボリルドルフはこの故障により予定されていた海外遠征をも取り止めており、シンボリ牧場オーナーの和田共弘からは”引退発言”も飛び出るほどの事態となった。
  • 1995年、ライスシャワーの「競走中止」
    1995年の宝塚記念は、阪神競馬場が阪神・淡路大震災の被害を受けて一時閉鎖を余儀なくされており、京都競馬場に場所を移しての「震災復興支援競走」として開催された。
    ライスシャワーは関東馬ながら1992年の菊花賞、1993、94年の天皇賞(春)を制するなど京都コースを得意としており、距離不適と言われながらもどういうレースを展開するのか注目されていた。
    レースは優勝したダンツシアトルが日本レコードを叩き出すほどの高速馬場となり、後方を進んだライスシャワーは第3コーナーの下りに差し掛かったところで躓いたように転倒。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており、診療所まで運ぶことができず「予後不良」と診断され、その場に幔幕が張られた中で安楽死の措置が執られた。
    このレースでは、ライスシャワー以外にも優勝したダンツシアトルが競走後に屈腱炎を再発、また最下位でのゴールとなったナリタタイシンもレース後に屈腱炎を再発し、双方とも引退となっているほか、3着のエアダブリンと14着のネーハイシーザーも屈腱炎を発症し長期休養を余儀なくするなど、出走した多くの馬が故障する悲劇的な結末となった。
  • 2015年、ゴールドシップの「120億円事件」
    ゴールドシップは2013年、そして2014年の本競走で優勝しており、「JRA史上初同一平地GI競走3連覇」という前代未聞の大記録が見えたレースで発走直前に「ゲート内で立ち上がる」など興奮した状態となり、ゲートが開いた直後にも再び立ち上がってしまったために大きく出遅れ、結果15着と大惨敗を喫した。
    このときの阪神競馬場では悲鳴と怒号、喚声とブーイングの嵐が吹き荒れ、もしゴールドシップが優勝していればおよそ120億円の価値となっていたものの、この事件で紙くずとなってしまった特大馬券の紙吹雪が舞った。