シービークロス

Last-modified: Wed, 19 Oct 2022 23:39:54 JST (551d)
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タマモクロスの父

シービークロスは、父にフォルティノ、母にズイショウを持つタマモクロスの父である。

1977年に中央競馬でデビュー。芦毛の馬体に、後方から鋭い追い込みを見せる姿から「白い稲妻」と称され、金杯(東)、毎日王冠、目黒記念(秋)の3つの重賞を制した。

 

クラシック戦線を戦った当時、シービークロスはまだ馬体が熟成しておらず、他馬と比べてわずかに小柄で脚も弱弱しく「まるで仔馬のようだ」と揶揄された。

デビュー戦から2戦続けて後方待機策を取り、直線での鋭さに磨きを掛けたシービークロスは、ある程度の先行策でなければ勝ち目はないといわれる皐月賞、東京優駿でも最後方からの直線一気で見せ場は作ったものの勝ちきれず、菊花賞には直前で熱発し出走自体を断念。

有馬記念にも挑戦したが10着と大敗を喫し、シーズンを終えた。

 

翌シーズンは年頭の金杯(東)から始動。後方から最後の直線でメジロファントムを差し切り、15戦目での重賞初勝利を挙げた。

ダービー当時に446kgだった馬体重は470kgまで増えており、騎手の吉永正人は「使いながら馬体重が増えているし、今日は馬の状態がともかく素晴らしかった。今年はなにか一暴れできそうな感じです」と感想を語った。

天皇賞(春)では道中は常の通り最後方を進んだが、周回2周目の第3コーナーから位置を上げ、最終コーナーでは中位で最後の直線に入った。

吉永は馬群がばらけると見越して追い込みをかけたが、当てが外れてシービークロスの前には壁ができる形となり、やむなく吉永が外に持ち出すとシービークロスは鋭く伸びたが、勝ったカシュウチカラから1馬身半差の3着と敗れた。

吉永は本競走について後年「勝てたレースだった」と振り返り、「ぼくがもう少し早く外に出せていたら……と、悔やまれますね」と述べている。

 

”白い稲妻”

春のグランプリ・宝塚記念では9着となり、夏は休養に充てた。

秋は天皇賞(秋)を目標に毎日王冠から始動。道中最後方から最終コーナーで馬場内側から位置を上げると、最後の直線では半ばから外に持ち出して先行勢を交わし、カネミノブに2馬身差をつけて勝利した。

走破タイム1分59秒9は同厩・同馬主の先輩馬シービークインの記録を0秒3更新し、東京競馬場の2000メートルで初めて2分を切るコースレコードとなった。

吉永は「いつもは展開に左右される馬だが、今日は4コーナーの時点で勝てると思った。それほど馬の気迫が違っていた」と感想を述べた。

 

続いて出走した目黒記念(秋)では1番人気に支持される。

レースでは最後方追走のはるか前方で、逃げ馬のヒダカホーリュウが大逃げを打ち、一時先頭から100メートル以上離された。

しかし最後の直線で最内をついて追い込み、ブルーマックスに1馬身半差をつけ重賞2連勝を遂げた。

2分32秒2は2500メートルの日本レコードタイムであり、2戦連続のレコード勝利ともなった。この頃からシービークロスには「白い稲妻」の異名が冠されるようになった。

吉永は「このまま無事なら天皇賞も楽しみ」と期待を口にしたが、同競走への直前の調教で右前脚に繋靱帯炎を発症し、回避を余儀なくされた。厩務員の青木によればシービークロスは入厩当初から右前脚に負担が掛かりやすく、瞬発力を極限に発揮したことが相当の負担を掛けたのだろうと述べている。

 

タマモクロスの弟妹たち

シービークロスの産駒は、タマモクロスを始めシノクロス(1985)、シルバリークロス(1985)、セントラルクロス(1985)、エーコークロス(1986)、イナズマクロス(1988)、エンジェルクロス(1988)と「○○クロス」という名称形式を多く取っており、ゲーム中に登場するタマモクロスの家の「チビたち」のモデルになっていると考えられる。

 

血統関係

ズイシヨウ(牝 1968 父:パーソロン(Pertholon))

シービークロス(牡 1975 父:フォルティノ)

 タマモクロス(牡 1984 母:グリーンシャトー)