アドマイヤコジーン

Last-modified: Wed, 19 Oct 2022 01:43:13 JST (555d)
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アストンマーチャンの父

アドマイヤコジーンは、父にコジーン(Cozzene)、母にアドマイヤマカディを持つアストンマーチャンの父である。

1998年のJRA賞最優秀3歳牡馬、2002年のJRA賞最優秀短距離馬である。

1998年の朝日杯3歳ステークス(GI)、2002年の安田記念(GI)を優勝。その他の勝ち鞍に、1998年の東京スポーツ杯3歳ステークス(GIII)、2002年の東京新聞杯(GIII)、阪急杯(GIII)。

 

馬主となる近藤利一氏の所有馬は「アドマイヤ」を冠名に持つことで知られ、アドマイヤコジーンと同期となったのは橋田厩舎所属であるアドマイヤベガであった。

アドマイヤベガ陣営はエリカ賞(500万円以下)からラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII)のローテーションを選択。

そのため使い分けを行い、アドマイヤコジーンは11月29日の東京スポーツ杯3歳ステークス(GIII)から12月13日の朝日杯3歳ステークス(GI)に出走。新馬戦から3連勝でGI初勝利となった。

 

故障に次ぐ故障

3歳となった1999年1月21日、調教後に右後脚を跛行し、さらに右後脚第一指骨を骨折。「相当な重傷で競走生活も心配されるほど」「亀裂はなんと縦5センチにも及んでおり、ボルト2本で固定しなければ、骨が避けてしまいそうな印象」という状況であった。

1月24日に行われた手術を経て、全治は6か月と判明し、クラシック参戦は不可能となった。3月4日に福島県いわき市のJRA競走馬総合研究所常盤支所内にある「馬の温泉」で長期休養。

それから回復し、馬の温泉にて「復帰をめざして徐々にピッチを上げたところ」、患部と反対側の左後脚の剥離骨折が判明。「ヘタをすればこれだけで競走生命が終わりかねないほどの大ケガ」であった。

8月にはノーザンファームで再び手術を行い、種子骨の一部を除去して、放牧に出された。11月には、冬の寒さを避けて鹿児島県に移動し、脚の負担の少ない浜辺での運動で治癒を目指した。

 

2000年春は全休、7月のUHB杯(OP)で1年7か月ぶりに復帰し、4着。2戦目の函館記念(GIII)では1番人気に推されるも6着。

それから後藤浩輝とともに11着、8着、芹沢純一とともに8着。12月のシリウスステークス(GIII)では、上村洋行に乗り替わり初のダート競走に出走したが、11着。その後は、橈骨の骨膜炎を発症し、再び年内は休養した。

翌2001年も上村が継続して騎乗し、7月までに6戦。阪急杯(GIII)3着、福島民報杯(OP)2着が目立つほどで、その他は下位。

次第に患部とは反対側の前脚、特に右前脚に深管骨瘤をきたしており、それから半年は、その前脚の不安と疲労を取り除くために、武田ステーブルで長期休養となった。

 

2002年は1月27日、東京新聞杯(GIII)で復帰。鞍上は、1年間主戦を務めた上村から後藤に代わり、12頭中10番人気で出走した。後藤は参戦にあたり、アドマイヤコジーンが前回勝利した朝日杯3歳ステークスのロバーツの騎乗を参考にしようと考えていた。

2番手で先行し、直線で抜け出すと、追い上げるディヴァインライトやダービーレグノを振り切り、後方に半馬身差をつけて勝利。3年ぶりの勝利となった。

続いて、2月24日の阪急杯(GIII)に2番人気で出走。3番手から直線で先頭に立つと、後方に3馬身半差をつけて勝利して連勝とした。それから、3月24日の高松宮記念(GI)では2番人気で出走し、ショウナンカンプに3馬身半及ばず2着となった。

 

続いて6月2日、安田記念(GI)に単勝7番人気で出走。スタートから先手を奪って3番手で進み、残り200メートルで抜け出した。外から2番人気ダンツフレーム、大外から1番人気エイシンプレストンが追い込んできたが振り切り、ダンツフレームにクビ差先着してGI2勝目、3年半ぶりとなるGI勝利となった。後藤にとっては、54度目のGI挑戦、デビュー11年目で初GI優勝であった。

 

その後は夏休みとなり、9月29日、新潟競馬場で行われるスプリンターズステークス(GI)に直行し、3番人気で出走。

2番手を進み、直線で逃げるショウナンカンプに取り付いて競り合ったが、残り50メートルで馬場の最も内側から1番人気のビリーヴにかわされ、半馬身差の2着となった。

続く11月17日のマイルチャンピオンシップ(GI)では、1番人気に推されて出走。いつものように先行することができず、中団に位置。直線では馬群から抜け出す余力なく、7着。

それから引退レースとして、香港マイル(G1)に参戦。外国での騎乗経験を買って武豊に乗り替わり出走、先行から「直線であわやという場面」も存在したが、抜け出すには至らず4着。

2002年12月24日付でJRAの競走馬登録を抹消し、競走馬を引退した。JRA賞表彰では、JRA賞最優秀短距離馬を受賞している。

 

受け継がれるスプリント能力

競走馬引退後は、2003年から種牡馬となり、2010年までは北海道安平町の社台スタリオンステーションで繋養された。2011年には、北海道新ひだか町のレックススタッドに移動した。

初年度産駒のアストンマーチャンが、2007年のスプリンターズステークス(GI)を制し、産駒のGI初勝利。2008年生産のスノードラゴンもまた、2014年のスプリンターズステークス(GI)を勝利した。産駒からは、スノードラゴン、2012、2013年のCBC賞(GIII)を連覇したマジンプロスパーが後継種牡馬となっている。

 

2015年の種付けシーズン途中、生殖能力の低下により種牡馬を引退することが発表。その後、スノードラゴンの活躍で再注目され、種付け依頼が集まったが、体調が戻らず断念。引退後は日高町のクラウン日高牧場で功労馬となった。2017年6月6日朝、大動脈破裂のため21歳で死亡。

 

血統関係

アドマイヤマカディ(牝 1991 父:ノーザンテースト)

アドマイヤコジーン(牡 1996 父:コジーン(Cozzene))

 ├アストンマーチャン(牝 2004 母:ラスリングカプス)

 └スノードラゴン(牡 2008 母:マイネカプリース)