セントライト

Last-modified: Mon, 15 May 2023 05:09:40 JST (348d)
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日本競馬史上初の三冠馬

セントライトは日本の競走馬、種牡馬である。

1941年に横濱農林省賞典4歳呼馬(皐月賞)、東京優駿競走、京都農商省賞典4歳呼馬(菊花賞)に勝利し、日本競馬史上初の三栄冠馬(クラシック三冠馬)となった。

 

1938年、三菱財閥経営の小岩井農場に生まれる。

父はイギリスのクラシック優勝馬として初めて日本へ輸入された、2000ギニー優勝馬ダイオライト。母フリッパンシーもイギリスからの輸入馬で、出生時にはすでに11勝を挙げた半兄タイホウ(父シアンモア)の活躍が知られていた。

1940年、小岩井農場のセリ市に上場され、出版社非凡閣社長の加藤雄策に3万2200円(1万2200円とも)で落札された。同9月に東京競馬場の田中和一郎の元へ入厩。デビューに向けて調教が積まれた。

 

春の二冠

1941年3月15日、横浜開催初日の新呼馬戦でデビュー。12頭立て7番人気と低評価だったが、2着に5馬身差を付けて初勝利を挙げた。

このとき、単勝払い戻しは法定上限の200円で、不的中者にも7円50銭の特配(特別給付金)が払い戻された。

2週間後の同30日、クラシック初戦の横浜農林省賞典四歳呼馬(のちの皐月賞)に出走。同期の最高額馬ミナミモアを抑えて1番人気に推されると、レースでは同馬に3馬身差を付けて優勝を果たした。

本競走は翌年に弟のアルバイト(のちにクリヒカリに改名)が優勝して兄弟による連覇を達成、1949年にはトサミドリも優勝し、史上唯一の記録である三兄弟による同一クラシック競走制覇を達成している。

 

その後は中山開催の2戦を連勝。地元東京での初出走となったハンデキャップ競走では58kgの斤量を背負い、アタマ差で2着となり初の敗戦を喫したが、東京優駿競走(日本ダービー)への一叩きとして臨んだ古呼馬戦では、当年秋の帝室御賞典(天皇賞の前身=のちの「天皇賞(秋)」)に優勝する5歳馬エステイツを破って勝利を挙げた。

 

5月16日の東京優駿競走は、前夜までの降雨の影響によって重馬場となった。

セントライトは横浜で破ったミナミモアに1番人気を譲って2番人気、中山四歳牝馬特別(のちの桜花賞)を制して来たブランドソールが3番人気であった。

レースでは道中3番手を進むと、最終コーナーで小西が手綱を抑えたまま先頭に立った。さらに残り200メートル付近からスパートを掛けると、後続を一気に突き離し、2着ステーツに8馬身差を付けて圧勝した。

この着差は1955年の優勝馬オートキツに並び、ダービー史上最大着差となっている。

 

三冠達成、引退へ

ダービーの後は休養に入り、日本競馬史上初のクラシック三冠を秋の目標とした。

9月27日の復帰戦ではダービー2着のステーツより11kg重い66kgの斤量を負わされ、3着と敗れる。しかし続く古呼馬戦では同じ斤量を背負い、春に破ったエステイツに再び勝利した。

翌週、特殊競走(のちの重賞競走)である横浜農林省賞典四・五歳呼馬を制したのち、三冠最終戦の京都農林省賞典四歳呼馬(のちの菊花賞)に備えて西下。

前哨戦として臨んだ古呼馬戦は、京都到着後4日目という慌ただしさのうえ、68kgの斤量を負って地元のコクチョウ(斤量60kg)に2馬身差の2着(3頭立て)と敗れた。

しかし、この一叩きで調子は上向きとなり、10月26日の京都農林省賞典四歳呼馬には絶好調の状態で臨んだ。

 

セントライトの他は、地元の2頭と関東から遠征したミナミモア、ステーツ、阪神優駿牝馬(オークス)優勝馬テツバンザイのみの計6頭と少頭数で、セントライトは1番人気に推された。

レースでは2番手の先行策から、ゴールではミナミモアに2馬身半差を付けて優勝。

1939年に三冠全競走が整備されて以来、4年目にして初のクラシック三冠を達成した。

しかし当時は三冠の概念がそれほど浸透していなかったこともあり、報道はダービー優勝時よりも遙かに小さな扱いだった。当事国内が支那事変から太平洋戦争へ向かう緊張下にあったことも要因にあったとされる。

 

その後は当時ダービーと並ぶ最高競走だった帝室御賞典を目標に、中山でハンデキャップ競走を使われる予定だった。

しかしこの競走で72kgの斤量を背負わされることが判明、馬主の加藤は「4歳馬に72kgも背負わせるぐらいならば」と、帝室御賞典に未練なくセントライトを引退させた。通算成績は12戦9勝。

 

2020年までにクラシック三冠を達成した牡馬の全8頭において、デビューから引退まで同一年なのは 当馬のみである。また、菊花賞以降レースに出走せず引退したのも当馬のみである。

 

引退後

競走馬引退後は小岩井農場に戻り種牡馬となった。太平洋戦争を経て、1947年にはオーライトが「平和賞」として再開された春の天皇賞(帝室御賞典の後継競走)に優勝した。

しかし、戦後進駐したGHQによって三菱財閥は解体され、小岩井農場もサラブレッド生産を禁じられると、セントライトは1949年より岩手畜産試験場に移された。

その後オーエンスが1951年秋の天皇賞に優勝、1952年にはセントオーが菊花賞父子制覇を達成した。

しかし小岩井から離れた後、セントライトの交配相手にはアラブや中間種が含まれるようになるなど質が著しく低下し、晩年は目立った活躍馬が出なかった。

母の父として桜花賞優勝馬トキノキロクが出ているが、同馬ほか2頭の重賞勝利馬を産んだマルタツは、セントライトとブランドソール(繁殖名はゴールドウェッディング)の子で、さらにその子孫からはオークス優勝馬リニアクインなども輩出した。

 

1965年2月1日、老衰のため同試験場で死亡。シンザンセントライトに次ぐ史上二頭目の三冠馬となってから数か月後のことだった。

1947年に重賞競走セントライト記念が創設されているほか、1984年にはJRA顕彰馬にも選出されるなど、シンザンや厩舎の後輩馬トキノミノルと同じく多重の顕彰を受けている。

なお、競走馬としてクラシック二冠を制し、種牡馬としても大きな成功を収めた半弟トサミドリも同年にJRA顕彰馬に選ばれ、史上唯一となる兄弟での殿堂入りを果たしている。

 

血統関係

フリツパンシー(Flippancy 牝 1924 父:フラムボヤン(Flamboyant))

セントライト(牡 1938 父:ダイオライト(Diolite))

|├オーライト(牡 1943 母:オーイエー(Oh Yeah!))

|├マルタツ(牝 1945 母:ゴールドウエツデイング)

||└トキノキロク(牝 1957 父:ライジングフレーム(Rising Flame))

|| └エンタープライズⅡ(牝 1966 父:ゲイタイム(Gay Time))

||  └リニアクイン(牝 1974 父:ハードリドン(Hard Ridden))

|├オーエンス(牡 1946 母:第弐オーグメント)

|└セントオー(牡 1949 母:オーソリティー)

├クリヒカリ(旧アルバイト 牡 1939 父:シアンモア(Shian Mor))

└トサミドリ(牡 1946 父:プリメロ(Primero))

 ├キタノオー(牡 1953 母:バウアーヌソル(Bavernesol))

 ├キタノヒカリ(牝 1954 母:バウアーヌソル(Bavernesol))

 |└アイテイオー(牝 1960 父:ハロウエー(Harroway))

 ├ガーネツト(牝 1955 母:サンキスト)

 ├ボジヨー(牝 1955 母:ダイニフジホマレ)

 |└ハツユキ(牝 1962 父:ソロナウエー(Solonaway))

 ├コマツヒカリ(牡 1956 母:イサベリーン(Isabelline))

 ├第四サンキスト(牝 1956 母:サンキスト)

 |└ダテテンリユウ(牡 1967 父:ウイルデイール)

 ├ホマレボシ(牡 1957 母:クロカミ)

 ├キタノオーザ(牡 1957 母:バウアーヌソル(Bavernesol))

 ├マツカゼオー(牡 1957 母:オーマツカゼ)

 ├グランドフオード(牝 1958 母:クリゾノ)

 |└タマミ(牝 1967 父:カリム(Karim))

 ├ヒロキミ(牡 1959 母:フエロニー(Felony))

 ├キミミドリ(牝 1960 母:キミオー)

 |└シヨウフウミドリ(牡 1966 父:ヴイミー(Vimy))

 ├サンマリノ(牝 1961 母:サンキスト)

 |└ミホランザン(牡 1971 父:ミンシオ(Mincio))

 ├タカエミドリ(牝 1966 母:ミツコ)

 |└タカエノカオリ(牝 1971 父:ヴェンチア(Venture))

 ├カシユウミドリ(牝 1967 母:デイスタ(Dhysta))

 |└カシユウチカラ(牡 1973 父:カバーラツプ二世(Cover Up Nisei))

 └トサハヤテ(牝 1968 母:ミスフロント)

  └オヤマテスコ(牝 1975 父:テスコボーイ(Tesco Boy))