ベガ

Last-modified: Wed, 06 Sep 2023 03:56:49 JST (205d)
Top > ベガ

アドマイヤベガアドマイヤボスアドマイヤドンの母

ベガは、父にトニービン、母にアンティックヴァリューを持つアドマイヤベガアドマイヤボスアドマイヤドン兄弟の母である。

 

デビュー~牝馬クラシック二冠

1990年、北海道早来町の社台ファーム早来に生まれる。父は1988年の凱旋門賞勝ち馬で、社台グループが購買し輸入した新種牡馬トニービン。母のアンティックヴァリューは20世紀最高の種牡馬と称されたノーザンダンサーの直仔で、その血統を求めていた社台の総帥・吉田善哉の肝煎りで輸入された馬だった。

母アンティックヴァリューには脚部が不自然に内側に曲がっている「内向」という身体的特徴があり、本馬にも成長と共に左前脚に曲がりが出始め、やがて誰の目にも判別できるほど酷い内向となった。このため牧場では「競走馬になれれば御の字」という見方もされ、現実にも少しのことで脚部に異常を生じ、育成調教も順調に進まなかった。

しかし2歳(1991年)秋から試験的に坂路コースでの調教を始められると、比較的脚部への負担が少ないことが分かり、さらに調教が続けられる内に動きが変わり始め、競走馬デビューへの展望が開けていった。牧場は引き続き坂路で調教することを条件に、滋賀県栗東トレーニングセンターの松田博資へ競走馬としての管理を依頼し、これを了承された。

 

出生当初の予定では社台グループが経営する一口馬主クラブ・社台レースホースで出資を募ることになっていたが、脚部の内向のため立ち消えとなり、競走登録に際して吉田善哉の妻・和子の個人所有馬となった。

本馬は顔面の白斑のなかに斑点があったことから、和子の孫がこれを星に見立て、「織姫星」にあたる「ベガ」と命名。「織姫星のように輝いてほしい」「七夕で人々が短冊に書いた願いを叶えるように、みんなの願いも叶えてほしい」という意味も込められていた。

 

1992年9月、松田博資厩舎に入る。入厩に際し、社台ファーム早来場長・吉田勝己からは「母親の所有馬だし、好きにやっていい」という言葉を添えられ、松田は能力を見極めながらのゆとりをもった調教に専念した。

以後は脚部不安に配慮しながらの調教が続いたが、松田はベガの身体の柔らかさに欠点克服の希望を見出し、また調教助手の目黒正徳は騎乗時にその柔軟性と頭の良さを感じ取り、大きな期待を寄せていた。

ゲート練習は何も教わらない状態のまま一回で終えてみせ、必修審査のゲート試験も一回で合格した。

 

1993年初頭、松田が状態の良い時を見計らって坂路コースで強めの調教をかけたところ、オープン馬と間違えられる程の動きと好タイムを計時し、同週にデビューすることが決まった。

1993年1月9日、京都競馬場の新馬戦でデビュー。鞍上は松田厩舎所属の若手騎手・橋本美純が務めた。

レースは先行策から直線ゴール前で他馬に突き放され、2馬身半差の2着となったが、実質一回の調教での臨戦だったことから、陣営は却って期待を高めた。

次走も橋本が騎乗する予定だったが、2戦目を前にした調教に遅刻したことで橋本は降板させられ、松田は「天才」の異名をとる武豊に騎乗を依頼し、これを了承された。

2戦目は2番手追走から直線で抜け出し、2着に4馬身差をつけて初勝利を挙げた。武はその走りに強い印象を受け、松田に「この馬、オークス勝ちますよ」と話したという。

 

初勝利のあと、左前脚に異常を来たす。松田はベガについて2400メートルで行われるオークスに向いた馬で、1600メートルの桜花賞は距離が短すぎると見ていたことから、オークスを目標とすることも考えていたが、その後状態が良くなり、ベガは桜花賞トライアルのチューリップ賞に出走することになった。

1勝馬ながら、競走当日は前年の3歳女王スエヒロジョウオーなどを抑え1番人気に支持された。レースでは最終コーナーで早々に先頭に立つと、直線では後続を突き放し、3馬身差で勝利を挙げた。レース後に武は「この距離でこの勝ち方ですから、本番でもかなり有力でしょうね」とコメントし、桜花賞への自信を覗かせた。

 

桜花賞に向けては日に日に調子が上がり、競走前の最終調教では坂路コースで51秒2という際立ったタイムを計時した。

4月11日の桜花賞当日は、単勝オッズ2.0倍の1番人気に支持される。スタートが切られるとベガは逃げ馬を見ながら3番人気のヤマヒサローレルと並んで2番手を進むが、最後の直線に入ってすぐ先頭に立った。ゴール前ではユキノビジンとマックスジョリーの2頭が追い込んできたが、前者をクビ差退けて勝利。牝馬クラシック初戦を制した。

島田明宏によると、武に対して「これまでのキャリアの中でのベストレースは?」と聞くたびに武はこの桜花賞を挙げるといい、武曰く、「レース前に思い描いた通りの競馬ができたという意味で、会心の1戦でした」という。

 

桜花賞のあと、陣営は「オークスに勝った場合、秋にはフランスのヴェルメイユ賞へ出走」という展望を明らかにした。また、一時はオークスではなく牡馬相手となる東京優駿(日本ダービー)出走も取り沙汰されたが、最終的にはオークス出走に収まった。

ベガは順調に調教を積まれ、5月20日には栗東トレーニングセンターから東京競馬場へ移動したが、初めて長距離輸送を経験したことで一時的に発熱や食欲不振といった変調を来たし、スポーツ紙でも大きく報じられた。また、桜花賞の最後の1ハロン(約200メートル)が13秒4というスタミナ切れを思わせるものでもあり、5月23日のオークス当日は1番人気となったものの、オッズは3.4倍と桜花賞との比較では落ちる数字となった。しかしこの時点でベガの体調は回復していた。

レースでは4番手を追走から最後の直線に入ると、残り200メートル付近で先頭のユキノビジンをかわし、同馬に1馬身3/4の差をつけて優勝した。春の牝馬二冠は史上9頭目、武はこれがオークス初制覇、松田は1988年のコスモドリームに次ぐ同2勝目となった。なお2着にユキノビジン、3着にマックスジョリーが入り、馬券対象圏は桜花賞と全く同じ結果となった。

松田は「不安らしい不安はありませんでした」と語り、武は後に3.4倍というオッズを取り上げ「自信があるだけに『どうして?』という感じでした」と述べている。

 

不振、引退

オークスの競走終了後、厩舎に戻る時点でベガは歩様に乱れを生じた。そのまま千葉県富里町の社台ファーム千葉へ放牧に出されたが、ここで右肩に筋肉痛の症状が出たことで、ヴェルメイユ賞出走の計画は撤回された。

その後社台ファーム早来へ移動したが、牧場の装蹄師が蹄に蹄鉄を打つ際に、人間の深爪にあたる「釘傷」を生じさせてしまい、牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯への出走が危ぶまれる事態となった。

8月末には栗東に戻ったが、本格的な調教はできず、出走を希望していたトライアル競走のローズステークスは回避してエリザベス女王杯へ直行することが決まった。一時的に坂路ではなく平地で調教を行ってみるなど試行錯誤が続いたのち、10月半ば頃から動きが良くなり始め、エリザベス女王杯に出走可能な状態となった。

 

競走当日(11月14日)は、夏の間に勝利を積み重ね、ローズステークスを制した上がり馬スターバレリーナが1番人気に支持され、ベガは2番人気となった。

レースでベガは好スタートを切ったものの、200メートルほどの地点で他馬と接触して体勢を崩す。武はベガを中団に控えさせ、道中は10番手を進んだ。最後の直線では伸びを見せたものの、先を行くホクトベガノースフライトに突き放されて3着に終わり、メジロラモーヌ以来史上2頭目の牝馬三冠は成らなかった。このとき民放テレビ中継で実況を務めた馬場鉄志は「ベガベガでもホクトベガ」という文句を残した。

ベガはスタート後の接触が原因で右後脚を負傷しており、競馬場の診療所で球節付近を4針縫合した。松田はインタビューに対し「あのアクシデントを敗因にしたくはない。豊の乗り方も完璧やったし、久々が応えたんやな。3着か。惨敗してないんだもん、よく走ったよ」とベガを労った。

エリザベス女王杯の後からベガは姿勢が変化し、デビュー前のような疲れやすい体質に逆戻りしてしまった。松田はこれについて、脚の内向が影響しない身体のバランスが辛うじて保たれていたものが、崩れてしまったことが原因であると考えた。

 

年末にはグランプリ競走の有馬記念に出走したが、最後の直線で全く伸びず、9着と初めての大敗を喫する。翌1994年には天皇賞(春)を目標に調教が行われたが、少しの運動で筋肉痛などを起こし、運動と治療を交互に繰り返す状態が続いた。

天皇賞への前哨戦として臨んだ産経大阪杯では1番人気に支持されるも、好位につけながら直線で伸びず9着と敗れ、天皇賞を回避することになった。

6月12日に行われる春のグランプリ競走・宝塚記念に目標が改められると、同競走の出走馬を選定するファン投票で第2位に選出される。競走前の最終調教では松田が自ら騎乗して感触を確かめた。

 

競走当日は春の天皇賞を制したビワハヤヒデが単勝オッズ1.2倍と断然の人気を集め、ベガは離れた5番人気であった。このレースの出走メンバーでGI勝ち馬は本馬とビワハヤヒデのみで、ビワハヤヒデの調教師の浜田光正は「どれが相手だか分からないようなメンバー」と後に回顧している。

スタート前、ベガははじめてゲート入りを拒む素振りを見せる。ゲートに収まってからは好スタートを見せ2番手でレースを進めたが、直線で伸びず14頭立ての13着と大敗。さらに競走後、左前第一指骨の骨折が判明した。その後、放牧が発表されたが、夏の札幌開催の開始に合わせて北海道に輸送され、そのままノーザンファーム(旧社台ファーム早来)に戻り引退、繁殖入りとなった。

 

繁殖牝馬時代

繁殖初年度および2年目にはサンデーサイレンスと交配され、初仔のアドマイヤベガは1999年に武豊騎乗で日本ダービーに優勝し、母子でのクラシック優勝馬となった。

また、2番仔アドマイヤボスセントライト記念(GII)に勝利した。ティンバーカントリーとの間に産んだアドマイヤドンは芝・ダートの両方で活躍、2002年から2004年のJBCクラシックで史上初の同一GI競走三連覇を遂げるなどし、当時日本最多タイ記録のGI7勝を挙げた。

これらの馬主となった近藤利一は競走馬時代からベガに着目し、桜花賞のパドックで吉田勝己に1億円即金でトレードを打診するも断られ、代わりに産駒の購買を約束したという逸話がある。最初の2頭は近藤と親しい橋田満厩舎で管理されたが、近藤が「ベガを育てた松田調教師にもお願いしたい」と希望したことで、アドマイヤドンからは松田が管理した。

 

2006年8月16日、ベガはクモ膜下出血のため死亡した。前日夕からの夜間放牧の際に、何らかの事故により転倒したものと推測されている。遺体は父トニービン、息子アドマイヤベガと同じ社台スタリオンステーションの墓地に埋葬された。

 

死亡当時に現役競走馬だった5番仔キャプテンベガも含め、出走した産駒は全てオープン馬となり、唯一不出走だった牝駒ヒストリックスターも母として2014年の桜花賞を制したハープスターを輩出した。なお「ハープスター」は星としての「ベガ」の別称(こと座α星)にあたる。

 

ユキノビジンのライバル

ベガは上述の通り、自身の獲った牝馬クラシック二冠でユキノビジンと鎬を削りあったライバルであり、ユキノビジンの育成シナリオでは「ハープアルファ」の名称で登場している。

またベガが挑んだ93年の有馬記念は「トウカイテイオーの現役復帰戦」でもあり、ビワハヤヒデナイスネイチャマチカネタンホイザメジロパーマーメジロマックイーンライスシャワーウイニングチケットといったメンバーが揃った内容となっている。

 

血統関係

アンティックヴァリュー(Antique Value 牝 1979 父:ノーザンダンサー(Northern Dancer))

ベガ(牝 1990 父:トニービン(Tony Bin))

 ├アドマイヤベガ(牡 1996 父:サンデーサイレンス(Sunday Silence))

 │├ニホンピロルピナス(牝 2002 母:ニホンピロタイラ)

 ││└ニホンピロアワーズ(牡 2007 父:ホワイトマズル(White Muzzle))

 │├ブルーメンブラット(牝 2003 母:マイワイルドフラワー(My Wild Flower))

 │└キストゥヘヴン(牝 2003 母:ロングバージン)

 ├アドマイヤボス(牡 1997 父:サンデーサイレンス(Sunday Silence))

 アドマイヤドン(牡 1999 父:ティンバーカントリー(Timber Country))

 └ヒストリックスター(牝 2005 父:ファルブラヴ(Falbrav))

  └ハープスター(牝 2011 父:ディープインパクト)