ハギノトップレディ

Last-modified: Thu, 08 Jun 2023 22:45:28 JST (315d)
Top > ハギノトップレディ

ダイイチルビーの母

ハギノトップレディは父にサンシー、母にイツトーを持つ日本の競走馬・繁殖牝馬である。

1980年に中央競馬で桜花賞、エリザベス女王杯などに優勝し、最優秀4歳牝馬に選ばれた。芝1000メートルの元日本レコードホルダー。

主戦騎手は伊藤清章(当時は伊藤修司調教師の娘婿で、のちに旧姓の上野姓に戻る)。半弟(父・テスコボーイ)にハギノカムイオー(宝塚記念)がいる。

 

フランスのGⅠ競走であるジョッケクルブ賞2着のサンシーは、斎藤卯助の息子・斎藤隆が1969年(昭和44年)に輸入した種牡馬で、牧場に戻ったイットーの最初の交配相手にはこの新鋭種牡馬が選ばれた。生まれた牝馬の仔馬はハギノトップレディと名づけられ、イットーを管理した田中調教師が亡くなったために栗東の伊藤修司師によって調教されることになった。

 

衝撃的なデビュー戦

1979年(昭和54年)8月12日、函館の1000メートルの新馬戦でデビューしたハギノトップレディは、スタートから先頭に立つとそのまま後続を2秒以上引き離し、57秒2の日本レコードを記録した。

函館競馬場の3歳馬(現在は2歳馬)の記録としては四半世紀以上経った2022年現在もいまだに更新されていない。(函館競馬場の芝1000mのレコードは1997年に5歳馬(現在は4歳馬)ソロシンガーの57秒0に更新されている)

イットーはとんでもない馬を産んだと話題になったが、ハギノトップレディはこの後脚を痛めて福島県常磐温泉で休養に入り、その後再び捻挫をして結局半年ほど休むことになった。

 

クラシック戦線①

1980年(昭和55年)3月下旬、桜花賞を目前に控え、まだ1勝馬にすぎないハギノトップレディは桜花賞指定オープンに出走した。不良馬場で行われたこの競走でハギノトップレディは1番人気だったが、3着に逃げ粘り、桜花賞への出走権を確保した。

2週間後の桜花賞は、わずか2戦1勝のキャリアしかないものの2番人気になった。1番人気はハギノトップレディのいない3歳戦を勝ちまくって最優秀3歳牝馬になったラフオンテースであった。

ハギノトップレディはスタートから先頭を奪うと、前半の800メートルを45秒台の猛烈なペースで逃げ、直線で一瞬捕まりそうになるも、二の足で再度突き放しそのまま20頭を引き連れてゴールまで駆け抜けた。

キャリア3戦目での桜花賞優勝は1948年(昭和23年)のハマカゼ以来32年ぶりの2頭目であり、この後も2020年(令和2年)のデアリングタクトまで40年間出現しなかった。漆黒の馬体に白い鼻梁の外見も人気で、3歳チャンピオンを出しながら桜花賞に縁が無かった「華麗なる一族」にとって、初の桜花賞制覇になった。

 

華麗なる一族とは

1957年にイギリスから輸入されたサラブレッドでイットーの曾祖母マイリーから発する牝系のことを指す。7号族(e分枝)のファミリーに属する。

「華麗なる一族」はほかに「白い巨塔」や「大地の子」などで知られる山崎豊子が1973年に発表した小説のタイトルであり、イットーが活躍した1974年に映画化され、またテレビドラマとしても放送されたことから当時関西テレビで競馬中継の解説をしていた詩人・志摩直人が用いた表現である。

非常に気性が荒い一方、大変なスピードで逃げるのが一族の特徴であり、半弟のハギノカムイオーが1979年に北海道静内町で開催されたセリ市において、当時の史上最高価格となる1億8500万円で落札。その落札額から一時は競馬の世界にとどまらない注目を集め、「黄金の馬」とも称されたことなどが、野心的な財閥一族を描いた当作品と合致したことでも話題となったとみられる。

 

クラシック戦線②

不良馬場で行われた優駿牝馬(オークス)でハギノトップレディは17着に大敗し、距離の壁があるといわれた。

夏を休養に充て、10月に復帰したハギノトップレディは、復帰緒戦のオープン戦(1600メートル)を1分34秒2のレコードで逃げ切った。後続との差は9馬身。

2戦目は京都牝馬特別、母のイットーが2度アクシデントに見舞われた因縁の競走だが、再び後続に2馬身半差をつけて逃げ切った。

 

11月16日のエリザベス女王杯は八大競走には含まれないが、事実上は牝馬による三冠最後の一戦として定着しており、オークス馬ケイキロクほか20頭が集まった。

2連勝で臨んでいるとはいえ、2400メートルの距離には不安があると言われたハギノトップレディは3番人気。本命は直前のオープン戦で同期のダービー馬オペックホースを破った外国産馬のインタースマッシュだった。

ハギノトップレディはいつもと同じように先頭に立つと、いつもとは違ってゆっくりとしたペースで逃げ、桜花賞を再現するかの様に二の足を使い、タケノハッピーを抑えて逃げ切った。ハギノトップレディはこの年の最優秀4歳牝馬に選ばれた。春には「イットーの子」と呼ばれていたが、暮れにはイットーが「ハギノトップレディの母」と呼ばれるようになっていた。

 

海外遠征

1981年、古馬になったハギノトップレディに海外遠征の話が持ち上がった。

この年創設されたアメリカのバドワイザーミリオン(現・アーリントンミリオン)は、約2000メートルで行われる賞金100万ドルの当時世界最高額の大競走として大変話題になった。

日本では当時、古馬の大競走といえば天皇賞(3200メートル)や有馬記念(2500メートル)といった長距離の競走ばかりだったので、スピード馬のハギノトップレディには最適と考えられた。

8月末にシカゴのアーリントンパーク競馬場で開催されるこの世界の大レースのステップレースとして、ハギノトップレディは半年振りに宝塚記念に登場した。

この年の宝塚記念はダービー馬2頭とオークス馬、それにハギノトップレディの参戦で大いに盛り上がった。ところが、ハギノトップレディは直線でつかまって4着に敗退し、公営の大井競馬から移籍してきたカツアールが勝った。この敗北を受けて、ハギノトップレディの海外遠征の話は立ち消えてしまった。

 

巴賞のマッチレース

その後、ハギノトップレディは高松宮杯を6馬身差で逃げ切ってイットーとの母娘2代制覇を達成すると、8月2日の函館のオープン競走、巴賞に登場した。

巴賞には、この年の春に桜花賞を無敗のまま優勝したブロケードも登録していて、新旧の桜花賞馬の対決となった。

ブロケードもハギノトップレディと同じように桜花賞を逃げ切って勝った快速馬で、ハギノトップレディは59キロを背負い、ブロケードと4キロの斤量差があった。斤量1キロ差につき1馬身差と言い、6馬身差が1秒差に相当するため、ハギノトップレディは4馬身(3分の2秒)のハンデを負っていることになる。

逃げ比べはどちらが制するのか、ローカル開催のただのオープン競走が競馬ファンの注目を集めた。ハギノトップレディは単枠指定され、1.4倍の大本命。

 

スタート直後、一番内側の1番枠から飛び出したハギノトップレディが先手を奪うと、ブロケードは2番手でこれを追いかけた。ハギノトップレディはあっという間に5馬身の差をつけ、やはり年上に一日の長があるものと思われた。

しかし、ブロケードは3コーナーで先を行くハギノトップレディとの差をぐんぐん詰めて上がってゆくと、逆に1馬身先に出た。常にスピードを活かして逃げ切るレースをしてきたハギノトップレディにとって、直線に入る前に並ばれたのは後にも先にもこれが唯一である。

そこからは二頭のマッチレースになった。最終コーナーでハギノトップレディはブロケードに並んだ。ブロケードを先頭に最後の直線を向くと、ハギノトップレディは再びブロケードに迫り、首を並べて激しい追い比べとなった。最後に頭ひとつだけハギノトップレディが出たところがゴールだった。

この巴賞は、トウショウボーイとテンポイントが競り合った有馬記念と並び称されるマッチレースとして有名になった。

 

引退レース

ハギノトップレディの現役最後の競走は10月の毎日王冠となった。当時は2000メートルで行われた毎日王冠で、ハギノトップレディは1000メートルの通過タイムが57秒4というペースで逃げた。

1000メートルの日本レコードは、2年前のデビュー戦で自ら更新するまで、57秒4だった。つまり2000メートル戦であるにもかかわらず、1000メートルのレコードに匹敵する猛ペースである。

結局ハギノトップレディはつかまって8着に沈み、ジュウジアローがレコードタイムで勝つことになった。この年初めて開催されるジャパンカップに出るという話もあったが、ハギノトップレディはこれで引退することになった。

 

引退後

11月の京都競馬場で引退式を済ませたハギノトップレディは、イギリスへ渡った。エプソムダービー、アイリッシュダービーを勝ち、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスでは驚異的なレコードで優勝して全ヨーロッパの年度代表馬となったイギリスの名馬、グランディと交配するためである。

グランディは既に1980年のエプソムオークス優勝馬バイリームの父となって成功していた。イギリスで未勝利だったマイリーが海を渡って日本にやってきてから24年後、その子孫が日本を代表する名牝となってイギリスに凱旋したのである。 

 

帰国したハギノトップレディが1983年に産んだ牝馬は、日英の歴史的名馬の仔であるから、大変な注目を受けることとなった。荻伏牧場にとっても、華麗なる一族の血を更に発展させ、牧場の将来を担う期待の1頭だった。

けれども、この仔は放牧されている間に事故に遭って骨折をし、命を落としてしまった。

 

その直後、皮肉と言うべきか幸運と言うべきかグランディが日本に輸入されてきたため、もう一度グランディを種付けする。生まれた仔(チユニカレディ)は無事成長したものの、未出走に終わってしまった。

 

1986年、ハギノトップレディに『天馬』と謳われたトウショウボーイが交配された。翌年生まれた黒鹿毛の牝馬は蹄に先天的な異常があったが、これが後に1991年安田記念、スプリンターズステークスを勝つ名牝、ダイイチルビーである。

 

生涯に残した産駒10頭のうち9頭が牝馬だった。上で述べた仔馬のうちに死んでしまった初仔以外の8頭の牝駒は全て繁殖にあがり、ここまでは細々と続いていた華麗なる一族の血を大いに広めているが、近年は勢力が衰え気味であり、現在のところはダイイチルビー→ダイイチシガーの親子と、孫に当たるマイネルセレクトや曾孫にあたるサダムイダテンやメイレディ(GRANDAME-JAPAN2012・3歳シーズンチャンピオン)、曾孫ゴッドエンジェルの仔である、キャプテンシップの活躍が目立つ程度である。

 

繁殖牝馬を引退した後は脚部の状態が悪化し、一時は安楽死させることが検討されたが、装蹄師福永守が経営する牧場に引き取られることとなり、福永の施した処置によって命を永らえた。2003

年11月22日に死去、ハギノトップレディの墓は福永の牧場の敷地内にある。

ウマ娘では・・・

「ウマ娘」では、「ダイイチルビーの母」として登場。《華麗なる一族》を世に知らしめた存在として、競走界に大きな影響を残している。

当時の頃より、レース界は「スピード偏重」の傾向を示していたとし、自身の栄光はそれに拠るところが大きいと語り、自身の子であるダイイチルビーには、《一族》の持つ「類稀なスピード能力」が結晶化していると話す。

自身に倣い、《一族》の名を背負い、自身が翔けた道を辿ろうとするダイイチルビーを、「貴女には貴女の進むべき、最も輝ける道がある」と諭した。

 

血統関係

イツトー(牝 1971 父:ヴェンチア)

ハギノトップレディ(牝 1977 父:サンシー)

 └ダイイチルビー(牝 1987 父:トウショウボーイ)