ラスカルスズカ

Last-modified: Thu, 27 Oct 2022 01:57:57 JST (519d)
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サイレンススズカの半弟

ラスカルスズカは、サイレンススズカと同じくワキアを母に持つ競走馬、種牡馬、乗用馬。父はヨーロッパで活躍した数少ないダンシングブレーヴ産駒の一頭であるコマンダーインチーフ。

 

1999年、デビューは遅く、4歳(現3歳)の6月にデビュー戦を迎え、サイレンススズカの主戦騎手でもあった武豊が騎乗し勝利を挙げた。

その後、デビュー戦から3連勝を挙げ、初の重賞挑戦となる神戸新聞杯に挑み、2番人気に支持され3着となり、菊花賞への優先出走権を獲得した。

迎えた菊花賞では、武豊が同年のダービー優勝馬のアドマイヤベガに騎乗するため蛯名正義に乗り替わりとなったが、アドマイヤベガを上回る3着となった。

続いて出走したジャパンカップでは、蛯名正義が同年のオークス優勝馬のウメノファイバーに騎乗するため柴田善臣への乗り替わりで4番人気に支持され、5着となった。

 

2000年、ラスカルスズカの鞍上には武豊が戻り、1月の万葉ステークスからの始動となった。万葉ステークスでは単勝1.1倍の1番人気に支持され、初のオープン勝ちを飾った。

続く阪神大賞典では昨年の菊花賞で先着を許したナリタトップロードやテイエムオペラオーとの再戦となり、馬券の人気も当馬を含めた3頭に集中した。

そんな中、2番人気に支持され、レースでは2着となった。人気の集中した上位3頭の複勝馬券および3頭の組み合わせからなる拡大馬連(ワイド)馬券は、全て1.0倍の元返しであった。

続いて天皇賞(春)に出走し、3番人気で出走、2着となった。金鯱賞では1番人気に支持されるも、メイショウドトウの前に3着に敗れ、宝塚記念では3番人気に支持されるも5着という結果だった。

その後、右前浅屈腱炎を発症し休養することになった。

 

2001年、復帰戦となったキャピタルステークスでは、再び柴田善臣が騎乗し5番人気だったが6着という結果に終わり、その後の有馬記念は回避することになった。

 

2002年、日経新春杯では武豊が騎乗し1番人気に支持されるも6着という結果に終わり、京都記念を回避して出走した中山記念では、当日騎乗予定だった武豊が落馬負傷し、急遽田中勝春が騎乗し3番人気に支持され、3着となるも脚部不安により長期休養することになる。

 

2003年、1年ぶりの復帰戦となった中山記念では7番人気で7着に敗れ、次走は初のダートとなったマーチステークスで9番人気で12着という結果に終わり、その後右前脚浅屈腱炎を再発し引退する事になった。翌年よりブリーダーズ・スタリオン・ステーションで種牡馬となった。

 

2004年シーズンより種牡馬となり、翌年にファーストクロップが誕生、その後21頭が血統登録された。

2007年、8月12日に小倉競馬場で行われた2歳未勝利戦(ダート1000m)を産駒のサンレイアイシングが勝利した。この勝利が産駒の中央競馬・地方競馬を通じた初勝利となった。

 

2010年の種付けをもって種牡馬を引退し、北海道苫小牧市のノーザンホースパークにて乗用馬として活動。その後、北海道岩内町の「ホーストラスト北海道」にて余生を過ごしていた。

しかし、2020年8月7日に疝痛を発症、翌8日にその病状が悪化し死亡した。

 
 
 

偉大なる兄の大いなる影響

ラスカルスズカは、サンデーサイレンスの産駒で日本競馬界を大いに湧き立たせたサイレンススズカの半弟ということもあって、その走りに寄せる期待は大きく、また兄の身を襲った悲劇から脚部に対する不安も大きかったとされる。

実際に右前浅屈腱炎の発症・再発で長期休養や最終的に引退になったことからも、ラスカルスズカに対してはサイレンススズカの弟として勝ち上がることは当然ながら、「どうか無事に走ってほしい」という感情を持つファンも多く、引退となった折も「生きていてくれただけでよかった」と労う言葉も多かった。

 

血統関係

ワキア(Wakia 牝 1987 父:ミスワキ(Miswaki))

サイレンススズカ(牡 1994 父:サンデーサイレンス(Sunday Silence))

ラスカルスズカ(牡 1996 父:コマンダーインチーフ(Commander in Chief))