シンザン

Last-modified: Sun, 17 Dec 2023 00:11:18 JST (132d)
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戦後初の三冠馬、日本初の五冠馬

シンザンは、戦後期の日本競馬を代表する競走馬で、1964年の日本クラシック三冠を制し、史上2頭目、戦後初の三冠馬となった。

この三冠に加え、翌1965年にも天皇賞(秋)および有馬記念で優勝し、当時の日本競馬で牡馬が挑めるGⅠ級競走「八大競走」の(牝馬限定の桜花賞・オークス、当時優勝馬の連戦が制限されていた天皇賞(春)を除く)すべてで勝利したことにより、日本の競馬史上初めて「五冠馬」の称号を与えられ、戦後日本の競馬界に長く影響を与え続けた功績の大きさから「神の馬・神馬」とも呼ばれる。

「ウマ娘」の中では、ミスターシービーの育成シナリオ中に『神話』として語られる”伝説の三冠ウマ娘”として存在に触れられている。

同年の宝塚記念にも勝利しているが、宝塚記念は「八大競走」に数えられていないため「六冠馬」と呼ばれることはなかった。

 

当時のシンザンは、特に際立って「強い」と思わせる馬ではなく、「ずんぐりむっくり」とも表現される豊かな馬体を持ち、調教においても常に集団の後ろをゆったりとした速度で追走し、ゴール板を越えるとすぐに停止する癖があり、「無駄に走らない馬」と目されることも多かった。

気性面においても非常に落ち着いた様子を見せており、「人にぶつかっても小石が当たったぐらいにしか反応しない」という報告があったほど、人に対し冷静であったという。

 

生来の冷静さはレースの上でも発揮されており、シンザンは力強い発走でスタートを切ると、その後は逃げ馬を後方から見る形で先行、計ったようにゴール手前で交わすレース運びをした。

ゲート入りから発走までの間に見られる「首を地面と水平にぐぐっと伸ばした姿勢」は「サラブレッドの理想の走行フォーム」ともされ、後世ではシンボリルドルフが同様の走行フォームを見せ世界のホースマンから称賛を受けた。

また、後脚の力強さもシンザンの特徴であり、前脚を上げ後脚で立ち上がる「棹立ち」を得意とし、そのままの姿勢で50mほど歩行して見せるなど卓越したパフォーマンスを見せることもあった。

着差を大きく広げて勝ったことは少なく、レコードを記録したことも一度もない。

菊花賞ではカネケヤキに大逃げを許し、一時は20馬身以上の大差が付いたこともあったが、それに焦らされることなく追い、最後の直線まで抑えてから一息に抜き去って見せた。

有馬記念では馬場状態の悪いインコースを避けて外ラチ側を回るミハルカスのさらに外に持ち出して躱して優勝。コーナーを回る途中、レースを撮影していたテレビカメラの視野から外れてしまい「シンザンが消えた!」と実況されたが、次にTVカメラがシンザンの姿を捉えたとき、シンザンは外ラチ沿いから中山の坂を力強く駆け上がり、先頭でゴール板を駆け抜けていた。

 

生涯成績は19戦15勝、敗北を喫した4戦についてもいずれもクビ差での2着であり、連対率100%を維持した。連続連対数19は、現在でも中央競馬におけるレコードである(次点はビワハヤヒデの15。100%に限るとダイワスカーレットの12が次点)。

 

シンザンには有馬記念後の1966年も現役を続行して海外遠征を望む声もあったが、前年にアメリカへ遠征しワシントンDSインターナショナルに出走したリユウフオーレルが惨敗、その後故障を発症して引退したのを目の当たりにしていたことにより「絶対に遠征はさせない」という決意が陣営にあったこともあり、有馬記念を最後に競走馬を引退。

北海道は浦河にある谷川牧場にて種牡馬入りし、シンザンのシンジゲート結成が試みられたが、当時は外国からの輸入種牡馬の人気が高く、内国産種牡馬が軽視されており、賛同者が定数に届かず実現しなかった。

 

そのためしばらくは谷川牧場のある浦河地区の牧場や、谷川の知人や親戚の牧場の牝馬を相手に細々と種付けを行っていた。

2年目の産駒から、三嶋牧場で生産されたシングンが1972年の金鯱賞、朝日チャレンジカップを制し、産駒初の重賞制覇となった。

続く3年目はスガノホマレ、シンザンミサキ、4年目はシルバーランド、ブルスイショーなど複数の重賞を制する産駒が現れた。

 

1971年までは、輸入種牡馬が種牡馬リーディング20位までを独占していたが、翌1972年には17位に入った。その後1978年は5位まで到達し、1983年まで20位以内を保ち続けた。

同様に、1972年から、1980年にアローエクスプレスに抜かれるまで内国産種牡馬の筆頭であり続けた。ライターの山河拓也は、シンザンの活躍によって内国産種牡馬が見直され、アローエクスプレスやトウショウボーイの活躍に繋がったとしている。

 

産駒からは八大競走などの大レースを勝つ馬がなかなか出なかったが、1981年にミナガワマンナが菊花賞に優勝した。この時点でシンザンは高齢であったためミナガワマンナは「シンザン最後の大物」とも呼ばれたが、さらにそのあと代表産駒となる二冠馬ミホシンザンが登場した。

 

シンザンはミホシンザンが天皇賞(春)を制した1987年に、授精能力低下により種牡馬を引退した。最終的に産駒の重賞勝利数は49勝に達した。また、1969年 - 1992年には産駒24年連続勝利の記録を打ち立てた。これはのちにノーザンテーストが更新するまで日本最長記録となった。

 

種牡馬引退後は谷川牧場にて余生を送った。晩年は右目の視力を失い、歯をすべて失い、さらに1994年2月以降、幾度となく自力で立つことができなくなるなど身体の衰弱が目立つようになった。

1996年7月13日2時ごろ、老衰により死亡。35歳3か月11日(35歳102日)の大往生だった。

シンザンはサラブレッド・軽種馬の日本最長寿記録を更新した。これらの記録は後に塗り替えられたが、GⅠ級競走の優勝馬に限って言えば今でもシンザンが最長寿である。

2023年4月16日に35歳の誕生日を迎えたナイスネイチャは現在も存命であり、最長寿記録を更新するのではないかと期待されている。

 

シンザンを超えろ!

シンザン引退後、日本のホースマンにとってシンザンを超える競走馬を生産し、育成することが目標となり、シンボリルドルフが出現するまでの約20年間、「シンザンを超えろ」のスローガンが標榜され続けた。

引退後のシンザンが冬の牧場で二本足で力強く立ち上がった姿を真横から捉えた写真にこのスローガンを添えた日本中央競馬会のPRポスターも存在する。

 

シンボリルドルフが無敗でクラシック三冠を達成したときに武田は「やっとシンザンを超える馬が出てきた」と述べたが、中尾は2003年時点で雑誌のインタビューで「シンボリルドルフナリタブライアンと比較しても『超えるわけがない』という思いはあります」と述べている。

また、騎手時代にミハルカスなどで対決した加賀は、2000年にJRAが主催するキャンペーン『JRA DREAM HORSES 2000』の投票結果を記載した雑誌の中で、「その後ミスターシービーシンボリルドルフナリタブライアンとすべての三冠馬を見ているが、シンザンを超えた馬はいない」と述べている。

 

また、1967年には三冠を達成したシンザンを記念して京都競馬場にて「シンザン記念」が創設された。

翌1968年には同競馬場にシンザンの銅像が建立され、台座には「五冠馬」の称号と「神賛」の字名が刻まれている。

1994年には北海道浦河町の特産品として清酒・純米吟醸「大本命・五冠神賛」という銘柄の日本酒が浦川町内限定で販売されていた(2017年度の出荷を持って製造販売を終了している)。

 

血統関係

ハヤノボリ(牝 1949 父:ハヤタケ)

シンザン(牡 1961 父:ヒンドスタン(Hindostan))

 ├ミナガワマンナ(牡 1978 母:ロングマンナ)

 └ミホシンザン(牡 1982 母:ナポリジヨオー)