セクレタリアト のバックアップ(No.1)
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- セクレタリアト へ行く。
- 1 (2023-09-08 (金) 01:59:50)
- 2 (2023-09-08 (金) 03:19:13)
- 3 (2023-09-08 (金) 08:23:47)
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- 6 (2023-09-09 (土) 21:53:38)
- 7 (2023-09-10 (日) 04:42:24)
- 8 (2023-09-10 (日) 10:02:42)
- 9 (2023-09-10 (日) 11:12:07)
- 10 (2023-09-10 (日) 12:40:58)
- 11 (2023-09-11 (月) 02:49:58)
- 12 (2023-09-11 (月) 22:39:48)
- 13 (2023-09-13 (水) 09:21:51)
- 14 (2023-09-15 (金) 08:49:19)
アメリカ合衆国の三冠馬
セクレタリアト(Secretariat)は、アメリカ合衆国の競走馬、種牡馬である。
同じくアメリカを代表するマンノウォー(Man o' War)とよく似た赤味掛かった馬体から、彼と同じく「ビッグレッド(Big Red)」の愛称で親しまれた。
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デビュー戦(1972)
1972年にデビュー、未勝利戦に出走して4着に終わったが、その後8戦して7勝を挙げ、うち5勝をステークスで挙げた。
この間の唯一の敗戦はシャンパンステークスで、セクレタリアトは1着に入ったものの、妨害により2着に降着。
当年のエクリプス賞を受賞し、年度代表馬にも選ばれた。
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三冠への道(1973)
1973年にはチャーチルダウンズのケンタッキーダービーを史上初となる2分切りの1分59秒4のコースレコードで圧勝。
続くピムリコのプリークネスステークスでも1分53秒5のコースレコード・世界レコードで圧勝し、このときのコーナーで魅せた「馬が空中を跳躍するような躍動感」を捉えた写真が「Time」「Newsweek」「Sports Illustrated」の3つの全国紙の表紙を飾ったことでセクレタリアトは全国的に知られるところとなった。
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そして迎えたベルモントパークのベルモントステークスでセクレタリアトと対戦したのは、先の二戦で先頭を競ったシャム(Sham)を含む4頭だけだったため、ショーベットは行われなかった。
このときのベルモント競馬場には史上2番目となる6万9138人の観衆が詰めかけ、またレースはCBSによってテレビ中継され、視聴率52%となる1,500万世帯異常が視聴した。
レース当日は快晴となり、高速馬場の予想。
セクレタリアトは好位からラチ沿いを進み、シャムが横に並ぶ形となった。
2頭は最初の1/4を23秒6、次の1/4を22秒6という猛スピードで駆け抜け、レース史上最速の半マイルで後続に10馬身差をつけた。
シャムが6ハロン過ぎから徐々に下がり始めても、セクレタリアトはハイペースで逃げ続け、1分34秒2の驚異的なタイムで1マイルを駆け抜けた。
これは父であるボールドルーラー(Bold Ruler)が記録したベルモント歴代マイル最速タイムを1秒以上も上回るもので、そのボールドルーラーもその後は疲弊し3着に終わったほどのハイペースであった。
しかし、セクレタリアトはここで怯むことなく速いペースのまま駆け続け、直線では後続に1/16マイル(100m以上)近いリードを築き、ゴールしたときの着差は実に31馬身差となっていた。
2分24秒はレースレコード及びコースレコード、ダート1+1⁄2マイルの世界レコードとして記録され、今もなお更新されていない。
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レースを観覧していた観客たちからは、開始当初は大きな歓声を上げていたが、レースが進むにつれて「セクレタリアトが速すぎるのではないか」という不信と恐怖の2つの反応が多く報告された。
セクレタリアトの勝利が明らかになると、その歓声は大きくスタンドを揺るがせたという。
このレースは、北米の競走馬による20世紀最高のパフォーマンスとして知られ、セクレタリアトは史上9頭目、1948年のサイテーション(Citation)以来25年ぶりの三冠馬に輝いた。
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アーリントンインビテーショナル(1973)
ベルモント後もセクレタリアトは走り続け、アーリントンインビテーショナルを1分47秒で9馬身差の圧勝とすると、ホイットニーステークスの準備のために”チャンピオンの墓場”との異名を冠するサラトガに向かう。
前週の追い切りではサラトガのコースレコードを更新する1分34秒台をマークしたが、レース当日にはスタートで出遅れ、道中はスローペースに折り合いを欠き、最終コーナーで頭差まで詰め寄ったものの、直線で引き離したオニオン(Onion)に1馬身差で敗れた。
オニオンに騎乗していたジャーケンズは”ジャイアント・キラー”として有名だったが、セクレタリアトの惨敗は低度感染症による発熱と下痢が原因であったとされる。
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マールボロカップ(1973)
次走のためベルモントに戻ったセクレタリアトは、食欲を失い数日間ぐったりとした様子だったが、2週間で4度の厳しい処置の結果、驚くべき超回復を見せてレースに間に合わせた。
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9月15日、厩舎の先輩でもあり、1972年のダービーとベルモントを制したリヴァリッジ(Riva Ridge)とのマッチレースを予定した第1回マールボロカップに出走。
セクレタリアトが前走のホイットニーステークスで惨敗し、調子が落ちていたこともあってマッチレースが成立しない可能性があったため、開催地が拡大されて全米から有力馬が招待されていた。
1972年の芝チャンピオンでカリフォルニアステークスのトップ勝馬クーガー(Cougar Ⅱ)、カナダチャンピオンのケネディロード(Kennedy Road)、1972年のアメリカ3歳チャンピオンキートゥザミント(Key to the Mint)、トラヴァースの勝馬で唯一の3歳馬アニヒレートエム(Annihilate)、そしてホイットニーステークスを勝利したオニオンなどがエントリーした。
5頭のチャンピオン馬を含んだ彼らのステークス勝利数は合計で63にも及んだ。
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前夜に雨が降ったものの、レース時には馬場は乾いていた。
セクレタリアトは5番手を追走し、リヴァリッジはオニオンとケネディロードのすぐ後ろにつけた。
コーナーを回ると、セクレタリアトは大外を回ってポジションを上げ始める。
直線に入るとセクレタリアトはリヴァリッジを抜き去り、他の先行馬は後退。
セクレタリアトはそのまま逃げ切り、1+1⁄8マイルを1分45秒4で走りきり、ダートの世界レコードで優勝した。
リヴァリッジが2着、クーガーIIが3着、オニオンが4着だった。
この勝利により、セクレタリアトは史上13頭目のサラブレッド億万長者となった。
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ウッドワードステークス(1973)
マールボロカップの後、当初の予定では2週間後に行われるウッドワードステークスにリヴァリッジを出走させ、その間にセクレタリアトは10月のマンオウォー・ステークスに備えて芝でゆっくりと追い切りを行う予定だった。
ウッドワードの前に雨が降り、馬場はリヴァリッジが対応できないようなスローペースになったため、代わりにセクレタリアトが出走した。
セクレタリアトは直線で先頭に立ったが、アレン・ジャーケンズ騎乗の4歳馬プルーヴアウト(Prove Out)に抜かれ、セクレタリアトより7キロ重い斤量を背負っていたにもかかわらず、4馬身1/2差の完勝。
この日のプルーヴアウトは、ベルモントパーク史上2番目に速いダート1マイル半のタイムを記録した。
プルーヴアウトはその年のジョッキークラブ・ゴールドカップでリヴァリッジを破っている。
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マンノウォーステークス(1973)
ウッドワードからわずか9日後の10月8日、セクレタリアトは芝に舞台を移し、距離1+1⁄2マイルのマンノウォーステークスに出走した。
セクレタリアトの相手は、その年の夏に芝1+1⁄8マイルの世界レコードを樹立したテンタム(Tentam)ほか5頭。
セクレタリアトが早めに先頭に立ち、テンタムが続く。
テンタムは半馬身差まで迫ったが、セクレタリアトがこれに応え、3馬身に差を広げる。
テンタムはコーナーを大きく回って再度仕掛けるが、セクレタリアトは再び逃げ、最終的にはテンタムに5馬身差をつけて圧勝、3着のビッグスプルース(Big Spruce)はさらにその7馬身半差だった。
セクレタリアトは2分24秒8のコースレコードをマークした。
レース後、ターコット騎手は「バックストレッチでテンタムが近づいてきたとき、私は彼に声をかけただけなのに、彼は逃げてしまった」と語った。
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カナディアンインターナショナル(1973)
セクレタリアトのシンジケート契約では3歳を過ぎての競走が禁止されていたため、現役最後のレースとしてカナダ・オンタリオ州トロントのウッドバイン競馬場で行われたカナディアンインターナショナルステークスが選択された。
このレースが選ばれたのは、E.P.テイラーとチェネリー一族との長年のつながりと、セクレタリアトのカナダでの繋養先であるローリンとターコットに敬意を表してのことだった。
ターコットは5日間の騎乗停止で欠場: エディー・メープルが騎乗した。
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レース当日は寒く、風が強く、雨が降っていたが、マーシャルの芝コースはしっかりしていた。
そんな天候にもかかわらず、約3万5千人の観衆が”歴史的瞬間”を見ようとセクレタリアトを出迎えた。
最大の強敵は、前走マールボロカップで負かしたケネディロードと、前走マンノウォーで3着のビッグスプルース。
ケネディロードが早めに先頭に立つと、セクレタリアトは外枠から抜け出して2番手に。
バックストレッチでセクレタリアトが先頭に躍り出た。
薄明かりの中、湯気を立てながら12馬身のリードでコーナーを回ると、ラスト1ハロンでギアを落とし、最終的に6馬身+1馬身2分の1差で圧勝した。
レース後、セクレタリアトはアケダクト競馬場に運ばれ、32,990人の観衆の前で、メドウシルクに身を包んだターコットとともに引退パレードを行った。
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セクレタリアトはキャリア21戦中16勝、2着3回、3着1回で、総収入は131万6808ドルだった。
1973年、セクレタリアトは再び年度代表馬に選ばれ、アメリカン・チャンピオン3歳牡馬とアメリカン・チャンピオン牡馬ターフホースとしてエクリプス賞も受賞した。
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引退後(1974~)
セクレタリアトが初めてクレイボーン牧場に引退したとき、精子に未成熟の兆候が見られたため、1973年12月、繁殖能力をテストするために3頭のサラブレッド以外の繁殖牝馬と交配させた。
そのうちの1頭、レオラという名のアパルーサ(斑文が特徴の品種)が1974年11月にセクレタリアトの初仔を産んだ。
ファーストセクレタリーと名付けられたこの仔は、父に似た栗毛で、母に似た斑があった。
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セクレタリアトの最初の公式産駒は1975年に誕生し、28頭の仔馬が生まれた。
最初の産駒にはカナディアン・バウンド(Canadian Bound)も含まれており、1976年のキーンランド7月セールでは、1歳馬として初めて100万ドルの壁を破り、150万ドルで落札された。
しかし、カナディアン・バウンドはレースでは完全に失敗し、セクレタリアトの産駒の価値は数年間著しく下落した。
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セクレタリアトは最終的に、以下を含む数多くの重賞勝ち馬を産んだ。
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- ジェネラル・アセンブリー(General Assembly) - 1979年のトラバース・ステークスの勝馬で、37年間続いた2分00秒のコースレコードを樹立。
- レディーズシークレット(Lady's Secret) - 1986年の年度代表馬。
- リゼンスター(Risen Star) - 1988年のプリークネスとベルモントステークスを制した。
- キングストン・ルール(Kingston Rule) - 1990年のメルボルン・カップでコースレコードを更新。
- ティナーズウェイ(Tinners Way) - 1990年に誕生したラストクロップで、1994年と1995年のパシフィッククラシックに勝利した。
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最終的にセクレタリアトは663頭の産駒を残し、そのうち341頭が勝ち馬(51.4%)、54頭がステークス馬(8.1%)であった。
種牡馬としてのセクレタリアトには批判もあるが、それはセクレタリアトが自身の能力通りの産駒を残せず、リーディングサイアーとなるような産駒を残せなかったことが主な理由である。
1992年、セクレタリアトは北米を代表する繁殖牝馬種牡馬となった。セクレタリアトの産駒は全体で24頭のGⅠ馬を輩出した。
ブルードメアサイアーとして、セクレタリアトの最も注目すべき子孫は以下の通り:
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- ウィークエンドサプライズ(Weekend Surprise) - ステークス馬で、1992年のケンタッキー年度代表馬。産駒には1990年のプリークネス賞馬サマースコール(Summer Squall)や1992年の年度代表馬エーピーインディ(A.P. Indy)がいる。
- テルリングア(Terlingua) - ステークス馬で、有力種牡馬ストームキャット(Storm Cat)の母。
- セクレッタム(Secrettame) - ステークス馬で、ケンタッキーダービーとプリークネスステークスの勝馬であるスマーティジョーンズ(Smarty Jones)を子孫に持つゴーンウェスト(Gone West)の母。
- シックスクラウンズ(Six Crowns) - 1984年2歳チャンピオンのチーフズクラウン(Chief's Crown)の母。
- シスタードット(Sister Dot) - 1993年2歳チャンピオンのデヒア(Dehere)の母。
- セルティックアセンブリー(Celtic Assembly) - ニュージーランドのリーディングサイアー・フォルクスラッド(Volksraad)の母。
- ベティーズ・シークレット(Betty's Secret) - ダービー馬セクレト(Secreto)、チャンピオン・ハードル3連覇のイスタブラック(Istabraq)の母。
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ウィークエンドサプライズとテルリングアだけでも、セクレタリアトは数多くのチャンピオンの血統に名を連ねている。
ウィークエンドサプライズの産駒A.P.インディは、2003年と2006年の北米リーディングサイアーであり、2003年の年度代表馬マインシャフト(Mineshaft)と2007年のベルモントステークス勝馬ラグズトゥリッチズ(Rags to Riches)の産駒である。
また、ケンタッキーダービーの勝馬オーブ(Orb)とカリフォルニアクローム(California Chrome)につながるサイアーラインも確立している。
A.P.インディの代表的なサイアーラインの末裔は、2014年から2015年にかけてサイアーリストのトップに立ち、ベルモントステークスの勝馬トナリスト(Tonalist)とクリエイター(Creator)の父となったタピット(Tapit)である。
テルリングアの息子ストームキャットも2度のリーディングサイアーであり、その子孫には北米で3度のリーディングサイアーに輝いたジャイアンツコーズウェイ(Giant's Causeway)がいる。
ストームキャットはまた、2015年の三冠馬アメリカンファラオ(American Pharoah)の母の父であるヤンキージェントルマン(Yankee Gentleman)も産んだ。
ストームキャットとA.P.インディの両方が、2018年の三冠馬ジャスティファイ(Justify)の血統に登場する。
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セクレタリアトの近親交配(インブリード)も成功しており、2度の年度代表馬ワイズダン(Wise Dan)やスプリントチャンピオンのスペイツタウン(Speightstown)など、数々のグレードステークス勝馬がその例である。
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1989年の秋、セクレタリアトは蹄葉炎を患い、1か月の治療を経ても症状の改善が見られなかったため、10月4日に安楽死の措置が取られた。
セクレタリアトの遺骸は、伝統的には頭、心臓、蹄のみが埋葬されるところ、”丸ごと埋葬される”という稀な栄誉を与えられ、クレイボーン牧場に埋葬された。
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X因子
セクレタリアトの死亡当時、解剖を行ったケンタッキー大学の主任病理学者トーマス・スヴェルチェク獣医師は、セクレタリアトの心臓の大きさに驚いたという。
スヴェルチェク医師はその後1993年に亡くなったシャムの解剖も行ったが、実際にシャムの心臓の重さを量ったところ、18ポンド(8.2kg)だった。
シャムの測定値と両馬の解剖に基づいて、彼はセクレタリアトの心臓はおそらく22ポンド(10.0kg)、平均的な馬(8.5ポンド(3.9kg))の約2.5倍であると推定した。
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心臓の肥大化はサラブレッドに時折見られる形質であり、特定の遺伝パターンで受け継がれる「X因子」と呼ばれる遺伝的疾患に関連しているという仮説が立てられている。
X因子は、1789年に死亡した歴史的な競走馬エクリプス(Eclipse)にまで遡ることができ、実際にエクリプスの心臓は14ポンド(6.4kg)であったことが判明している。
エクリプスは娘たちを介してこの形質を伝えたと考えられており、セクレタリアトの母系にもエクリプスの娘がいることが血統調査により証明されている。
セクレタリアトのメアサイアーとしての成功は、この「X因子仮説」によるものだとする論者もいるが、実際のところ「X因子」の存在自体は証明されておらず、ましてやそれが運動能力に寄与しているかどうかは証明されていない。