カブラヤオー

Last-modified: Sat, 16 Sep 2023 19:31:02 JST (226d)
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ダイタクヘリオスの従兄弟

カブラヤオーは父ファラモンド(Pharamond)、母カブラヤを持つ競走馬・種牡馬である。

1975年の皐月賞・東京優駿など年内成績6戦6勝で、優駿賞年度代表馬・最優秀4歳牡馬に選出された。

無謀ともいえる驚異的なハイペースで逃げるレースぶりから「狂気の逃げ馬」の異名を取った。

 

デビュー戦~

1972年6月13日と遅生まれであったせいか、馬体も小さい上に気も小さく、人を見るとすぐ逃げ出すような臆病さで、両親の黒鹿毛を引き継ぎ健康なのが取り柄であったが、それ以外はパッとしない評価であった。

 

1974年11月の東京ダート1200mの新馬戦でデビュー。7番人気と低い評価のままであったが、中団から鋭く追い込んで2着と奮戦。

2週間後の芝1200mの新馬戦で2着に3馬身差を付けて初勝利を挙げると、12月の中山ひいらぎ賞芝1600mでも8番人気ながら、陣営も驚くほどの力強い逃げ切りで2着に6馬身を付けて連勝した。

 

テスコガビーの存在①

4歳となった翌年、1月の東京ジュニアカップダート1600mから始動。

騎手が菅野澄男から菅原泰夫に乗り替わり、カブラヤオーは初めて1番人気となると、2着に10馬身差をつける圧倒的な逃げ切りでそれに応えた。

1975年の牡馬クラシック路線は、前年の阪神3歳ステークス優勝馬ライジンを筆頭に、ホシバージ・ニルキング・ロングホークなど関西馬の下馬評が高く、4歳になっても現れる有力馬はエリモジョージなど関西馬が中心の状況は続いており、対する関東馬は前年の最優秀3歳牝馬となったテスコガビーの他は目立った馬もおらず、全体を見渡せば西高東低となっていた。

そんな中でカブラヤオーは第9回東京4歳Sで重賞に初挑戦するが、ここで問題が生じた。デビュー戦から4連勝中の牝馬・テスコガビーがレースに出走してきたからである。

同じ逃げ馬でしかも京成杯で牡馬を一蹴している強敵であることも問題であったが、それよりもこのテスコガビーもカブラヤオーと同じ菅原が手綱を取っていたことである。

結局、関係者間の話し合いの結果、「テスコガビーは所属厩舍の馬ではなく一度降りたら再度乗れる確証が無いが、カブラヤオーにはいつでも乗れる」という理由で菅原はテスコガビーに騎乗、カブラヤオーの鞍上には菅野が戻ることになった。

テスコガビーは重馬場が苦手と見られてカブラヤオーが1番人気であったが、スタートはテスコガビーの方が良かった。しかし臆病なカブラヤオーの性格を知る菅原は手綱を抑え、加速のついたカブラヤオーを先に行かせる。

想像されたような激しい競り合いもなく淡々とレースは流れ直線を迎えた。

カブラヤオーは左回りでは右によれる癖があったが、菅野はそのことを忘れ、左ムチを使い、カブラヤオーはさらに大きく右によれた。これを見たテスコガビーの菅原はとっさにカブラヤオーの右に馬体を寄せた。

ようやく体制を立て直したカブラヤオーはテスコガビーとの長い叩き合いの末、クビの差先着し、菅野は騎手生活唯一の重賞勝利となった。

後に二冠馬となった両馬による雌雄を決するこの戦いは日本競馬史上に残る名勝負として名高い。

 

クラシック二冠

期待された有力馬が次々と脱落する中、一躍クラシック戦線の主役に躍り出たカブラヤオーは、菅原に手綱が戻った弥生賞も逃げ切り、断然の1番人気で皐月賞を迎えた。

スタート直後にレイクスプリンターが絡んできて逃げのペースを乱されたが、前半1000mを58秒9という短距離戦に匹敵するラップタイムで走破。

第4コーナーを回ってもスピードは衰えず、ゴール前に二の脚を使ってロングホーク・エリモジョージ以下に2馬身半差をつけ、皐月賞レコードで圧勝。

道中でカブラヤオーと激しい競り合いを演じたレイクスプリンターは、競走中に右後脚を骨折、最下位で入線したものの予後不良と診断されて安楽死処分となった。

この為、後世の出版物などでは「殺人ラップ」「狂気のハイペース」などと称される事も少なくない。また、カブラヤオーが作り出すハイペースについて、レイクスプリンターに騎乗していた押田年郎はレース後「あの馬は普通じゃない。化物です」と涙ながらに語っている。

余勢をかって出走したNHK杯も不良馬場をものともせずにロングファストに6馬身差をつけ、大外を回りながら勝利した。

 

日本ダービーは晴れ・良馬場の絶好の馬場状態で迎えることができ、4枠12番の単枠指定されたカブラヤオーは当然の1番人気であった。2番人気は皐月賞2着のロングホーク、3番人気はロングファストの関西勢であった。

好枠を得たカブラヤオーと菅原は出ムチをくれて先頭を奪うが、今度はトップジローがしつこく絡んできてペースが上がり、皐月賞を上回る前半1000m58秒6、1200mを1分11秒8という驚異的なハイラップを刻んでしまった。

こんなハイペースで逃げ切ったダービー馬はいなかったため、大観衆のほとんどは「カブラヤオーは消える」と考えた。カブラヤオーはその後もなかなかマイペースに持ち込めないまま直線を迎えたが、苦しさから口を割ってふらつきながら外へよれる。

しかしここからが彼の真骨頂であり、体制を立て直すと菅原のムチに応え、ロングファストに1馬身1/4差をつけて優勝した。

この時点でデビュー2戦目から無傷の8連勝を達成し、クラシック二冠馬となった。カブラヤオーの破天荒な強さに大観衆は驚嘆したほか、後に評論家の井崎脩五郎は「このレースは不滅だ」と賞賛し、自分の見てきた20世紀最強馬はマルゼンスキーと語りつつも「この1レースだけとればカブラヤオーと言う人がいてもおかしくない」と語っている。

 

テスコガビーの存在②

一方、テスコガビーもまた阪神4歳牝馬特別で単勝支持率87.2パーセントという圧倒的な1番人気に推され、レコードで逃げ切り楽勝とすると、桜花賞でも1番人気(単勝1.1倍)で3枠7番に単枠指定。

レースでは好スタートで早々に先頭を奪うと、もう他の馬はついていけなかった。直線では他の21頭を突き放すばかりで、2着のジョーケンプトンに1.9秒の大差を付けて1冠目を手にした。

1600mの距離で争われる桜花賞では通常考えられない着差であり、桜花賞史上最大で後にも先にも例がない。

実況していた杉本清(当時・関西テレビアナウンサー)は直線半ばであまりにも大差がついたために「後ろからはなんにも来ない、後ろからはなんにも来ない、後ろからはなんにも来ない」と同じ言葉を3回繰り返して絶叫。このフレーズは、当時の圧勝劇をよく伝える名調子として知られている。

杉本自身は「想像以上の大差でリードを伝える以外に言う事が無くなり、実際は苦し紛れであったため、失敗したと思っていた」が、視聴者からは好意的に受け止められていた。

2013年には、JRAの桜花賞のテレビCMでも使用された。優勝タイム1分34秒9は桜花賞レコードで、コースレコードからも0.1秒差であった。

 

オークスへは直行の予定であったが、馬主の長島の要望により、オークストライアルの4歳牝馬特別に出走。しかし桜花賞で限界まで調整された反動が出て直線で伸びを欠き、初めて連対を外す3着と敗戦。

牝馬同士で初めての負けを喫し、距離延長と体調不良も相まって、1番人気に支持されたものの不安を抱えてのオークスに挑むことになった。

単勝も2.3倍と桜花賞からは大きく落としていたが、しかし本番では何も心配はいらなかった。

菅原が軽く先頭を奪うと、レースをスローペースに持ち込み、2着のソシアルトウショウ(トウショウボーイの半姉)に8馬身差をつけて牝馬二冠を達成。

この8馬身差は日本中央競馬会施行のオークス史上最大着差で、それ以前を含めても戦時中のクリフジ(10馬身)、終戦直後のトキツカゼ(大差)に次ぐ記録であった。

スポーツライターの阿部は「勝ちタイムは平凡」としながらも、「スタートから逃げて影も踏ませず、2着に8馬身差を付けた内容は、やはり時代の制約を超えた強さと言えるだろう」と評している。

 

この年、両馬の鞍上を務めた菅原は史上初の春のクラシック完全制覇を成し遂げて、これをきっかけに一流騎手へと飛躍していく事になった。

カブラヤオーの快進撃は、こうしたテスコガビーを皐月賞・日本ダービーの前週に駆った「予行演習」の成果と見る向きも少なくない。

その後

三冠を目指して無事に夏を越したカブラヤオーであったが、9月下旬に蹄鉄を取り替える際、左脚の爪を深く切りすぎたのが原因で、屈腱炎を発症。菊花賞を断念せざるをえなくなり、ダービーで見せつけた強さを考えれば三冠は濃厚であっただけに、その戦線離脱は惜しまれた。

カブラヤオーはその年の優駿社賞年度代表馬・最優秀4歳牡馬に選出された。

治癒後の5歳に復帰し、ダービーから1年弱の1976年5月、東京ダートのオープンが復帰戦となった。

東京4歳S以来となる菅野の騎乗で斤量は60kgであったが、久々もものともせずに軽快に逃げ切って9連勝を達成。

復帰2戦目の中山のオープンではゲートに頭をぶつけ脳震盪を起こすアクシデントがあり、生涯唯一の着外負け(11着で最下位入線)を喫して連勝は9で止まるが、これは未だ並ぶもののない日本中央競馬会主催の平地競走における連勝記録である。

古馬になってからはマイルや1800mの中距離オープン戦を主に戦い、赤羽秀男が騎乗した7月の札幌の短距離S、9月の東京のオープンでは62kgで連勝。

天皇賞(秋)の有力候補となったが、調整過程で屈腱炎が再発。これで引退を余儀なくされた。

 

引退後の1977年から日本軽種馬協会胆振種馬場で種牡馬として供用され、その後は1981年に日高軽種馬農協三石種馬場を経て、荻伏種馬場、日本軽種馬協会静内種馬場で供用された。

小柄で「異系の血統」「狂気の血統」と言われながらの種牡馬生活は、種付け料もさして上がらず、決して恵まれたものでなかったが、1988年に妹・ミスカブラヤも勝ったエリザベス女王杯をミヤマポピーも勝ち、GI馬の父となった。

種付け頭数は684頭で、全体的に中堅クラスの産駒を多く残した。種牡馬を引退した1997年から栃木県の日本軽種馬会那須野牧場にて余生を送っていたが、2003年8月9日に老衰で死去。

享年31歳の大往生であり、1回忌を前にした2004年5月9日、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「カブラヤオーメモリアル」が東京芝1600mにて施行された。

 

”狂気”に隠された秘密

驚異的な逃げを武器にしたが、その逃げも、NHK杯での大外回りも、幼少時に他馬に蹴られて馬込みを極端に嫌う気性となっているのを隠して、絶対に競りかけられずに力を発揮させるために陣営が編み出した戦法であった。

ハイペースの逃げ戦法に耐えうる能力が引き出された理由は、この臆病な気性故のことであった。さらに生まれつき心肺能力が優れていた点も見逃せない。

この様な事情があった為、カブラヤオーの臆病な気性は関係者の間でずっと極秘にされており、極端な逃げ戦法の理由がようやく明らかになったのは、引退後の1980年代後半になってからの事であった。

 

ウマ娘では・・・

ゲームアプリ内ではダイタクヘリオスとのロビー会話やSSRのサポートイベントにて「やっちゃん」の愛称で彼女の叔母としてその存在に触れられている母であるカブラヤが登場している。

ダイタクヘリオスの「DJの師匠」でもあり、目標とするライマー・アーティスト。

テンアゲ爆逃げを身上とするヘリオスを以てして「まじヤバイ」「鬼ぶっ飛んでる」と表現されるなど、そのイカレ破天荒ぶりが語られている。

カブラヤオーも「やっちゃんの息子でヘリオスの従兄」という形で、何れは登場する機会があるかもしれない?

血統関係

ミスナンバイチバン(牝 1959 父:ハロウエー(Harroway))

├カブラヤ(牝 1965 父:ダラノーア(Darannour))

│├カブラヤオー(牡 1972 父:ファラモンド(Pharamond))

││├コガネポプラ(牝 1980 母:セントシグマ)

│││└コガネタイフウ(牡 1987 父:マグニテュード(Magnitude))

││└ミヤマポピー(牝 1985 母:グリーンシャトー)

│└ミスカブラヤ(牝 1976 父:ファラモンド(Pharamond))

└ネヴァーイチバン(牝 1971 父:ネヴァービート(Never Beat))

 ├ダイタクヘリオス(牡 1987 父:ビゼンニシキ)

 └スプリングネヴァー(牝 1992 父:サクラユタカオー)

  └ダイタクリーヴァ(牡 1997 父: フジキセキ)