アグネスワールド のバックアップソース(No.1)

**ヒシアケボノの半弟 [#k1debea2]

アグネスワールドは父にダンジグ(Danzig)、母にミステリーズ(Mysteries)を持つヒシアケボノの半弟(父親違いの兄弟)。

1997年6月、函館新馬戦でデビュー。7月の函館3歳ステークスではレコード勝ちを収めるも、その後に骨折を発症。

ぶっつけで挑んだ12月の朝日杯3歳ステークスではグラスワンダーの4着に敗れるも、全日本3歳優駿に挑戦し優勝する。

年明けのシンザン記念で2着となった後に再び骨折し1年間休養。

1999年1月ガーネットステークスで復帰し6着。その後は淀短距離ステークス2着、シルクロードステークス2着、高松宮記念5着と、いずれも芝1200mの競走で勝ちきれないレースが続き、距離が伸びた安田記念では8着に敗れる。

安田記念から連闘で参戦した北九州短距離ステークスで、芝1200mを1分6秒5という日本レコードとなるタイムで勝ちを収め、ふたたび軌道に乗り始める。

小倉日経オープンを勝利ののち、イギリスのニューマーケット競馬場、ロバート・アームストロング厩舎にドージマムテキとともに滞在し、前年滞在したシーキングザパールと同じコースで調教された。

レース3日前にロンシャン競馬場に移動。アベイ・ド・ロンシャン賞は、ヨーロッパのスプリント戦線の主役を張っていたディクタットやストラヴィンスキーが出走せず、14頭での争いとなった。

馬券はドージマムテキと同じ馬主扱いとなり、ドージマムテキ及びアグネスワールドの単勝オッズは7.8倍の4番人気。

アグネスワールドは好スタートから2番人気のサントマリーヌに次ぐ2番手につけて抜け出し、ゴール寸前で追い込んだインペリアルビューティを短首差退けて勝利、G1勝ちを果たした。

帰国後はCBC賞に勝ち、続くスプリンターズステークスでは単勝1番人気に推されるもブラックホークに差され2着に終わる。

2000年は3月の高松宮記念に出走するが、キングヘイローの3着に終わる。

その後イギリスに遠征し、キングズスタンドステークスで単勝8番人気ながら2着になると、続くジュライカップでは単勝1番人気に応えて優勝、海外のG1競走2勝目を挙げ、海外の2つの国でG1競走に勝った初の日本馬となった。

帰国後のスプリンターズステークスはダイタクヤマトに逃げ切られ、またしても2着。同年のブリーダーズカップ・スプリント(米G1)8着を最後に引退した。
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**直線番長 [#r73e0484]

高いスピード能力を持つ一方で、コーナーワークが不得意だったとされる。国際G1競走を2勝しているが、この2勝はどちらもコーナーのない直線レースで、日本国内のGI競走は最後まで勝つことができなかった。

本馬を管理していた調教師の森秀行は、本馬の身体的素質を自動車に喩えて、「桁違いのエンジン」を持っていたと高く評価している。その一方で森は「スタートからアクセル全開で飛ばし途中でアクセルを緩めることを知らないから、どこかでガス欠を起こして止まってしまう」とも述べ、本馬の気性面に問題があり、ペース配分ができなかったことを指摘している。

このため距離は短いほど良く、最適なのは1000メートル戦で、「1200メートルでもちょっと長いかなというぐらい」だったという。

ウマ娘プリティダービーにおいてはアイビスサマーダッシュ、ルミエールオータムダッシュ、韋駄天ステークスの三つのレースが1000mの直線レースとなっており、これらを目標としている競走馬はまだ登場していないことからアグネスワールドの目標レースになるのではないかとして期待されている。