ノーザンダンサー のバックアップ(No.2)


偉大なる競馬界の父

ノーザンダンサーは、ビワハヤヒデナリタブライアン兄弟の母であるパシフィカスの父である。

またアドマイヤベガの母であるベガの母アンティックヴァリューの父にも当たる。そのほかの血統については多くなるため後述。

 

1964年にカナダ産馬として初めてケンタッキーダービーを制したサラブレッドであり、その後20世紀で最も成功した種牡馬の一頭となった。

カナダの象徴とされ、1965年にはカナダのスポーツ殿堂入りを果たしている。1976年にはカナダとアメリカの両方でレースの殿堂入りを果たした。

競走馬としては、ブラッド・ホース誌が20世紀の米国サラブレッド競走馬トップ100にランクインさせている。また、種牡馬としても、その影響は世界中に及んでいる。

 

ノーザンダンサーが生まれた1961年は、日本ではシンザン、アメリカではレイズアネイティヴが生まれた年でもある。

当時の競馬界はナスルーラ系、セントサイモン系、ハイペリオン系等が勢力を競っていた状態で絶対的な主流は存在せず、ノーザンダンサーの父ニアークティックも主流の一角ネアルコ系の枝の一つにすぎなかった。

 

引退後ノーザンダンサーは種牡馬となり、4年間ウインドフィールズファームで繋養された。初年度種付料は1万ドルであった。

ノーザンダンサーはカナダのみならずアメリカの生産者からも高い人気を集め、1969年にウインドフィールズファームからメリーランド州にある、テイラーがアメリカで出走する所有馬の調教のために作った牧場(ウインドフィールズファームメリーランド支場)へと移動した。

 

ノーザンダンサーは2年目の産駒から、イギリスクラシック三冠馬となるニジンスキーを送り出し、その後も英愛ダービー優勝馬ザミンストレルなど146頭のステークス競走優勝馬を輩出した。

産駒はヨーロッパでの活躍が目立ち、イギリスのリーディングサイアーを4回(1970年、1977年、1983年、1984年)獲得した。アメリカのリーディングサイアーは2度(1971年、1977年)獲得している。

さらに産駒の中から種牡馬として成功するものが多く現れると(主要国でリーディングサイアーとなった産駒はサドラーズウェルズを筆頭に9頭。これはセントサイモンの8頭を上回る)、その人気はますます高まった。

1970年代後半から続いた種付け料・シンジケート価格・セリ市における2歳馬の取引価格などの高騰の波にも乗り、1984年には2歳産駒のセリ市での落札価格が平均約332万ドルに、1985年には種付け料が公示価格で95万ドル(当時のレートで2億円以上、実際にはこれ以上の価格で取引されたとされる)に達し、ノーザンダンサーバブルと呼べる現象が起こった。

絶頂期のノーザンダンサーは「ノーザンダンサーの精液は文字通り金と同じ価値がある」と言われた。日本でもノーザンテーストがリーディングサイアーを10回獲得するなど大きな成功を収め、牡の産駒が種牡馬として次々に輸入された。

 

ノーザンダンサーは1987年に受胎率が著しく低下したことにより交配シーズン途中で種牡馬を引退し、余生をノーズビュースタリオンステーション(ノーザンダンサーの種牡馬引退後ウインドフィールズファームメリーランドから改称)で過ごした。

1990年11月16日早朝、ノーザンダンサーは疝痛を発症して苦しんでいるのが発見され、安楽死の処置がとられた。ノーザンダンサーの遺体はカナダのウインドフィールズファームに埋葬された。1992年7月にはウッドバイン競馬場に銅像が建てられた。

 

ノーザンダンサー

ノーザンダンサーの産駒は何れも種牡馬として大成しているものが多く、世界中のサラブレッドにその血統が流れているとされている。

1966年から始まったノーザンダンサーの血脈は2022年現在に至るまで、実に50年以上も続いており、近代競馬史そのものと言っても過言ではない。

 

ウマ娘として登場している競走馬に関係しているラインを抜粋してみても、

 
 

などが挙げられる。黄金世代やミレニアム世代の血統を辿ると、ほとんどのウマ娘がノーザンダンサーにたどり着くことになるのである。