▋概要
- 葛飾北斎。江戸時代後期を代表する浮世絵師。
現状体験クエスト以外に記述がないが、本作では北斎の三女にして助手である「お栄/葛飾応為」を主な姿として顕現しており、その在り方はオリオンに近いものとなっている。
- バトルキャラの第1、第2段階では応為本人だが、第3段階の彼女はタコの姿になっていた北斎がその人格を乗り移らせている。違いとしては文章では娘の人格の時は「おれ」、父親の人格の時は「俺」の一人称になる。
二次創作時は気をつけよう。
よく見ると名状しがたき髪飾りに頭をかじられているとと様の抜け殻とおぼしきモノが…
- FGO世界では、後述の経緯によりクトゥルフ神話の邪神の力を得てフォーリナーのサーヴァントとなったとの設定が成されている。
フォーリナーに該当するサーヴァントはアビゲイルに続いて2人目であり、彼女の登場によってフォーリナークラスの方向性や該当条件などが大まかに判明することとなった。
なおフォーリナーになるまでは北斎自身が英霊の座に行くことを拒否していたため、カルデアによるサーヴァント召喚の候補に挙がることはなかった。
- FGO外では『氷室の天地 Fate/school life』2018年2月号(単行本11巻に収録)にて「第3回ぼくの考えた最強偉人募集」に採用された偉人の一人として登場。
あちらでは生涯に30にも及ぶ号を使用した事から、奥義を一度使う度に「勝川春朗」→「葛飾北斎」→「鉄棒ぬらぬら」→「画狂老人卍」と名前・外見・能力が変化するという設定で、作中では身体の中央に「卍」の文字が浮かび禍々しい炎を纏った「画狂老人卍」に変化した時の姿が描かれている。
▋マイルームでの特殊会話
▋デザイン
- 実装された葛飾北斎のキャラデザインには、実在した北斎の絵画に由来すると見られるものが見受けられる。
- 再臨第2段階以降で彼女の周りを舞うのは水しぶきのようにも千鳥のようにも見えるが、これは絵本『富嶽百景』第二編より「海上の不二」の千鳥の再現と思われる。
- 第3段階のセイントグラフで彼女の背景に浮かぶ波模様の水色の穴のようなものは、名所絵『諸国滝廻り』の「木曽路ノ奥 阿弥陀ヶ瀧」から。
- 作品の詳細については「戦闘中に表れる北斎の作品について」内に記す。
- セリフにもさることながら、同じく彼女のデザインのあちこちにはクトゥルフ神話にも通じるモチーフも織り込まれている。
- 髪や帯を彩る意匠は、五角形から「古のもの」ないしその象徴である「エルダーサイン」に関連しているとも考えられるが、『Fate/Zero』における海魔を模している可能性もあり、詳細は不明。
- 再臨第3段階になるとクトゥルフ成分溢れた外見になり、バトルキャラも宙に浮く。セリフにもクトゥルフ関係の文言が混在するようになるが、当人が意味を理解しているかは少々怪しいところ。
- なお、初期段階等の着物の柄は花札がモチーフのデザイン(『FGO material』vol.6より)。
▋戦闘モーション
- 戦闘モーション内でも、北斎の絵画がエフェクトとしてふんだんに取り入れられている。
- [A][B][B]で東町祭屋台天井絵『鳳凰図』と『龍図』。[EX]では黒富士こと冨嶽三十六景「山下白雨」。宝具には上町祭屋台天井絵『怒涛図』から「女浪」。そしてご存じ冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」を見ることができる。
- 「神奈川沖浪裏」は第3スキル「雅号・異星蛸」のアイコンにも用いられている。
- 第三再臨以降で[A][B][B]選択時に表れる龍および海竜のような絵図については該当絵がなく、クトゥルフ神話に登場する生物を北斎風にデザインしたFGOオリジナルのものである。
前者はモチーフを判じ難いが、後者はクトゥルフの化身の一つにして旧約聖書のリヴァイアサンとも同一視される「全ての鮫の父(FATHER OF ALL SHARKS)」がモデルと思しい。
- 作品の詳細については「戦闘中に表れる北斎の作品について」内に記す。
▋FGOでの北斎とクトゥルフ神話について
- 北斎はタコを題材にした絵や春画を書いており、特にその一つ「蛸と海女」は「200年以上前に触手プレイを描いた春画」として一部では有名。
お栄「おれァ濡れ場ずばりな春画はそこまで十八番ってわけじゃあねェが、とと様は、ホラその、なんだ……」
このためしばしば「北斎は触手という性癖のパイオニア」と思われがちだが、実際はこのような触手プレイ春画は北斎以前にもすでに類似作品がいくつか存在していたことがわかっており、北斎はそれらの影響を受けて作品を描いたと考えられている。
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| | エロ(グロ)注意
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- この絵に書かれている2匹の蛸…台詞はオスっぽいのだが、吸盤の並び方はメスのそれだという指摘がある。もし本当にメスだとしたら、さらにマニアックな産卵(女性が卵を産むほうではなく、女性の膣や子宮に卵を産み付ける植卵)プレイという可能性もある。
- 余談だが蛸の卵は珍味として取り扱っている。今では鮮度の問題で入手が難しいが、食レポを見る限り相当に美味らしい。
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- 本作においては、こういった作品が「資料蒐集の鬼である北斎が、海魔について記された異本を手に入れ、そこから着想を得て描き上げたもの」といった形で解釈されている。
本作の北斎が第3再臨に到達すると異界の邪神を思わせる姿へと変貌するのは、異本を通して異界の邪神の存在を知ったことに加え、「異端なるセイレム」において外宇宙=虚空からこの宇宙への時空の道筋が繋がってしまったことが直接的な原因である。
虚空より地球の存在を知覚した邪神の一柱は、海魔の存在を知る北斎に目を付け、その魂と混ざり合うことで現実への降臨を目論んだ。その結果として北斎は邪神との接触を経て「領域外の生命」「神性」スキル、そして「降臨者」たるフォーリナーのクラス適性を得たのだ。
- なお、北斎が異界の邪神と本格的に接触した時期は不明。
「異端なるセイレム」における「外なる神」降臨事変がすべての発端となったのは間違いないが、そのせいかこの宇宙と外宇宙の時空の繋がりがあやふやになってしまっているため、連中絡みの時系列に関する特定は困難と考えられる。つーかぶっちゃけイベントの時系列問題の対策にすら思える
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| | このサーヴァントにおける神性について
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- 葛飾北斎の魂と混ざり合ったとされる「異界の邪神」の正体は、蛸というキーワードや「ふんぐるい…」という呪文、「螺湮の城(ルルイエ)について書かれた魔道書」に記されていたことなどから、旧支配者の一柱「クトゥルフ」そのものだと推測される。
- クトゥルフ神は体は肥満気味の類人猿、頭部はタコに似た頭足類、体中うろこでおおわれ、手足には巨大なかぎ爪、背中には蝙蝠の翼に似た器官があるという巨大な神性(ラヴクラフトの作品中では大祭司)の一種で、海底に沈んだ都市ルルイエにて眠っており、星辰が正しい位置につくことでルルイエの浮上とともに目覚めるとされている。
クトゥルフ神話世界の設定によれば3億5千万年前にゾスの星から眷属とともに地球に飛来し、当時地球を支配していた海百合と樽を合わせたような宇宙外生命体「古のもの」と熾烈な戦争を繰り広げたのちに休戦協定を結び、はるか後にムー大陸と呼ばれることになる大陸を支配したらしい。
のちに星辰の乱れや敵対する旧神の手によってルルイエに封印されたが死んではおらず、眷属などに働きかけて虎視眈々と復活のチャンスをうかがっているという。
設定においてクトゥルフはポセイドンなどの海の神々の原型とされている(まぁギリシャ神話などの方が実在している型月世界ではこの設定は拾われることはないだろうが)。
ムー大陸の古代人が眷属とともに神として崇め、大陸が海に沈んでからも太平洋全域の海洋民族やスペイン統治以前のメソアメリカ文明において、戦いの神ウィツィロポクトリとして崇拝されたという。
現在でもアラスカのイヌイットやポナペ島、ペルーのマチュピチュ、インスマス、マルケサス諸島、パプアニューギニアなどで崇拝されているとのこと。
また正体不明のテレパシー能力を有しており、これに当てられた生物は大抵の場合精神的ショックを受け、最悪の場合はそのまま精神が崩壊し発狂する。
体験クエストにおいて北斎が海底から響く謎の声を聞く描写があったが、これはほぼ間違いなくルルイエに眠るクトゥルフからの交信である。
- 本作において北斎に影響を与えたとされる『螺湮城教本』は「ルルイエ異本」の異名を持ち、キャスタークラスのジル・ド・レェが正式な宝具として所有している。
ジルは螺湮城教本の力により「クトゥルーの神を模した超巨大海魔」を召喚しているが、この大海魔がクトゥルフそのものなのか、数多く存在するクトゥルフの眷属神の一種なのかは定かではない。
- ちなみに、同じく「降臨者」サーヴァントとなっていたアビゲイルには「外なる神」が関与しているのだが、クトゥルフはそれとは異なる「旧支配者(Great Old Ones、かつて地球を支配していた者)」にカテゴライズされる。
クトゥルフはあくまで地球規模の脅威に過ぎないが、アビゲイルの外なる神は宇宙規模、ひいては全時空規模の存在であるため、神話(特にリン・カーターがフォーマット化して以降のものやTRPG系作品)においてはあの神性の方が格上と見られている。
- 余談だが、葛飾北斎をクトゥルフと絡めたのはTYPE-MOONが初めてではない。
- 実はイベント「カルデアヒートオデッセイ ~進化のシヴィライゼーション~」にて、うりぼうsがクトゥルフ絡みの詠唱をしているシーンがある。
- 「「「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん♪」」」
- ただしそのときの言葉そのものは「クトゥルーさんが、お屋敷で寝てますよー♪」程度の意味でしかなく、言ってみればクトゥルフ神話を語る際のお約束・決まり文句に過ぎない。
クトゥルフを扱う作品では「死せるクトゥルー、ルルイエの館にて、夢見るままに待ちいたり」と訳される。
- 一方で、北斎の信仰する妙見菩薩も、クトゥルフ神話を取り扱う場ではクトゥルフと対立する別の旧支配者である「ハスター」と同一視される事がある。
この存在が北斎周りのイベントで干渉を行っていたのかは明かされていないが、そもそもの発端である「黄金の蜂蜜酒」は彼の者の眷属「バイアクヘー(ビヤーキー)」を呼ぶためのキーアイテムでもあり……。
- 『クトゥルー2』に収録されている『永劫の探求シリーズ』によれば、「ごく少量飲むだけで知覚力が高められるとともに、睡眠中に霊体を分離することができるようになる」という。
その状態で旧神の印を身に着け、角笛を吹き、バイアクヘーを呼ぶ呪文を唱えれば呼び出すことができるとのこと。
作中ではクトゥルフとの戦いを展開していたシュリュズベリィ博士と彼の弟子たちがクトゥルフの手の及ばないプレアデス星団のセラエノに逃げる時や、クトゥルフの眷属の拠点を襲撃する際に使われた。
- 呪文は以下の通り。
いあ!いあ!はすたあ!はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい!あい!はすたあ!
- この時は霊体での行動になり、肉体はハスターの従者の手によってアラビアの無名都市の地下やレン高原、カダスといった場所に保管される(その間一切歳は取らない)。
- ちなみに史実の葛飾北斎は晩年になって法華経に傾倒し、ぶつぶつ奇怪な念仏を唱えながら近所を歩き回っていたという逸話が残されている。
- また『釈迦御一代記図会』という釈迦の後半生を題材とした仏伝の挿絵では、白と黒の強烈なコントラストで神仏や鬼の姿を描ききっており、葛飾北斎が見た「何か」の片鱗を感じ取ることができる。
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▋北斎・応為父娘のエピソードあれこれ
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| | 真名や人物像
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サーヴァント・葛飾北斎の本体(?)である三女・応為。この「応為」とは号(画号・雅号)であり、本名は栄と言い、お栄、栄女とも記された。
「応為」の由来は諸説あるが、その一つに作業の指示を仰ぐために「おーい」と北斎をたびたび呼んだため北斎から「お前は今日からオウイだ」と叱られ、それをそのまま画号にしたというものがある。
- ただ、作品をプロデュースし売り出す版元は北斎のネームバリューを優先し、応為が描いた絵を北斎名義で出版するということが度々あったらしい。
事実、北斎の作品には応為単身で筆を執ったと推察される作品も多く、近年の研究ではこれらは版元の判断で北斎作とされたと考えられている。特に北斎の最晩年の作品には彼女との合作も存在する。
- そうした事情から、FGO内では(現実においてもしばしば)「『葛飾北斎』はブランド名」「二人合わせて『葛飾北斎』」という扱いをされている節がある。したがって、父娘揃って1騎の「葛飾北斎」というサーヴァントとして召喚されるという経緯は(少なくともオリオンよりは)筋が通っているといえる。
誰が呼んだか、サークル「葛飾北斎」。そうして2020年初冬のイベントではいよいよ組扱いで呼称された。
- 葛飾応為という人物について
- 父の陰に隠れがちだが、応為自身も優れた浮世絵を残しており、美人画・春画・枕絵の作者としても優れていたという。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語っている。
たすき掛けの町人姿から一変、再臨第2段階で艶やかな花魁風な装いに変わるのも、この父の評価に由来するのかもしれない。
- 落款や作風などから彼女の作品とされるものとして『月下砧打美人図』『吉原格子先図』『三曲合奏図』『夜桜美人図(春夜美人図とも)』などがある。
- その一方でその品性や性格などは当時の女性に求められるようなものとは程遠く、まさに「女子力・生活力/Zero」という残念なお人。勝ち気で男っぽく任侠風を好み、貧乏や散らかった部屋も気にしなかったとされ、更に当時の世間では非常に珍しくて馴染みの薄い「家に嫁がずに仕事をする女性」であった。またあまり美人でなかったらしく、父の北斎からはアゴが大きいからと「アゴ」と呼ばれていたとか。
- ある日、婚期になっても結婚しようとしない応為を流石に北斎が心配し、知人に縁談相手を探してもらって琳派の絵師・堤等明へ嫁がせた。しかし嫁いだ応為は気ままに絵を描いてばかりで掃除も炊事も全くやらず、とどめに旦那の画才を鼻で笑うという無茶苦茶な有様だった。
結局、彼女の酷すぎる生活ぶりや態度に業を煮やした旦那は速攻で彼女に三下り半を突き付けて返品、出ていった彼女はそのまま父親の所に出戻り絵描きとして生きていくと言って譲らず、この様子にとうとう北斎も折れて彼女を自分の手元に置いておく事にした模様。
- 酒も煙草も嗜まなかった父とは正反対に、筋金入りの愛煙家。これまたとある日、まだ火が点いた灰を父の作品にうっかりこぼして焦がしてしまい、大いに後悔して禁煙を決意する。が、しばらくして知人が家を訪ねるとまた吸っており、指摘されるとのらくらと返答したという。
- 父・北斎が自宅にて息を引き取った際、門人に対しての死亡通知書をしたためている。
父を看取った後も応為はしばらく活動はしたものの、晩年は出家して尼となり、加賀前田藩に召し上げられてのち65歳前後で世を去ったという。また一説によれば同時期にふらりと家を出た後、そのまま失踪したというものもある。没年についても諸説あり、慶応年間まで生きていた可能性が指摘されてもいる。
- 葛飾北斎という人物について
- 本名、川村鉄蔵。中島八右衛門とも称した。また、上記の通り雅号は無数にありコロコロ変わっている。様々な作品を残したが、特に版画と肉筆の浮世絵により当代一の絵師として讃えられていた。
- 応為だけでなくそもそも父・北斎も「生活力/Zero」な人物で、日がな一日中布団に包まりながらひたすら絵を描き、住んでいる長屋がゴミで汚くなるとさっさと引っ越してしまうという生活を続けていた。その回数、実に通算93回。しかもある時には「引っ越し先の風景が気に入らない」という理由で一日に3回も引っ越しするというデタラメぶりで、応為のガサツさは間違いなく父親譲りと思われる。
そして金銭への執着も皆無なため、稼いだものは絵のための諸費用に丸々突っ込まれ、生活費のやり繰りは応為が苦心していた。
- 当時の絵の具はほとんどが天然素材なので、本格的なものは想像を絶する高価になる(特にラピスラズリから作られた瑠璃色の絵の具はそれだけでひと月食っていけるほど)。
良い絵を描こうと画材代をはずむとあっという間に素寒貧になってしまうため、売れっ子になれれば万歳だが鳴かず飛ばずだとひもじい生活が待つ。絵師稼業が博打なところは古今東西変わらないらしい。
- 北斎もまた号であるが、先述の住居同様に何回も変更されている。中には「卍」というもはや名前なのか分からないものも。
- 「北斎」の号は「北斎辰政」の略であり、北極星(北辰/玄天上帝)の神格・仏格化である妙見菩薩(北辰妙見菩薩/妙見尊星王)に由来する。宝具セリフの冒頭はいずれも妙見菩薩の真言である。
- 号を弟子に譲って収入を得ていたとも言われるが、なんと「北斎」の号さえも譲ったというのだから驚き。本作でもスキル3及びスキル使用時のセリフでその様子が伺える。改号は通算30回に及ぶとか。
- セリフでも言及されている「紫色雁高」や「鉄棒ぬらぬら」等、春画時に使用していた裏画号のネーミングセンスのすさまじさには定評がある。
- 雅号や住居が次々と変わるのと同様に、その時々で画題とするものも移り変わっている。美人、偉人、町人、物語の1シーンから風景画に魑魅魍魎、そこいらの店前や軒先に並ぶ花々や食材などなど…移り気と見えなくもないが、見方を変えれば世間の流行りにのみならずちょっと目に映った何気ない光景にもピンとくるほどに、感性が非常に高かったことの表れでもある。
「見たままをあるがままに描き起こしたい」という熱意は既存の画風や手法では満たせず、舶来物の西洋画から学び取ったであろう遠近法にも着手した。
- なお『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』などに顕著な北斎独特の波の描き方だが、後世ハイスピードカメラで波を撮影したところ、波がそっくりの形で発生していることが発覚した。はたして葛飾北斎の「見たまま」とは、何を見た上での言葉だったのだろう。
- 再臨第3段階以降で攻撃時に出るセリフ「神妙ならん」は、絵本『富嶽百景』の後書きに見受けられる。いわく、
「俺も子供の時分からいろいろと写し取ったり描いてきたりしたモンだが、(中略)このまま百歳を数える頃にゃ、まさに”神妙ならん”(人の域を超える)腕前ともなれていりゃアいいんだけどよォ」。
この頃、北斎は70代。同じく後書きからは、「思い返せばここまで描いてきたものは何とも微妙な出来栄えばかりだったが、ようやくモノの造形とやらを描き出せるようになってきたんで、いよいよこれからサ」という衰えぬ意欲の表れも見て取れる。
- 戦闘不能時の「人魂で 行く気散じや 夏野原」は、彼の辞世の句より。「これで絵筆も執れなくなっちまうのが惜しいったらねェが、さて人魂にでもなって夏の原っぱへ気晴らしに出かけようかねえ」という意。
あと10年生き長らえることを天が許すなら、いよいよ本物の画工というやつに手も届こうものをなあ―――と言い遺したとされる。
- 天才絵師と持て囃されたが、当人は晩年になってなお「猫一匹ろくに描けない」と嘆き続けた。北斎が求めた境地が如何ばかりの高みにあったかは余人の知るところではないが、天才ゆえに「ありのままを描く」ことに一切の妥協を許さず執着し続けたのかもしれない。余談ながら同時期(正確には一世代後なので応為と同年代)の天才絵師・歌川国芳はたいそう猫好きで知られ、とかく猫を題材にした浮世絵を描いてばかりいた。
北斎にも手塚治虫めいた対抗心とかあったのかもしれない。
- 嘉永2年(1849年)4月、森羅万象を描く浮世絵師とも絶賛された北斎は黒船来航や幕末の動乱、来たる新時代の文明開化を目にすることなく90年の生涯を閉じる。当時の長寿番付にも載るほどであったという。
――その150年後、米国誌が発表した”この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人”に彼は唯一の日本人として選ばれた。彼の残した浮世絵の独特な色彩、特に青色は「HOKUSAI BLUE」と評され、今なお世界中の人々を魅了し続けている。
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| | マイルーム中のセリフについての由来あれこれ
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酒呑童子に対する会話で言及される「切禿の女童」、つまりおかっぱの少女は、夭折した妹のことではないかと思われる。
アビゲイルに対するセリフ「南蛮人相手には一文だってまからねェよ?」については、絵を注文してきた異国人から「自分は上司と比べて薄給の職にあるので、自分の分は半額にならないか」と代金の値切り交渉を受けたというエピソードがあったため。
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| | エピソードの顛末とその後
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この時、北斎は憤慨して品物を渡さずに引き上げてしまったが、後に異国人の上司であるオランダ長崎商館長が自分の分の代金も含め満額で支払い買い取った。
- この異国人は「シーボルト事件」で知られるドイツ人学者P.シーボルトとされる。彼は後に幕府ご禁制の日本地図などを持ち出そうとしたとの疑惑から国外追放処分となるが、来日中に収集した生物や植物の標本、文学作品や芸術品は19世紀ヨーロッパにおける日本研究の先駆けともなった。2016年には、シーボルトが持ち帰った作品の中に北斎の肉筆とされる6枚の風景画(5枚の水彩画に1枚の岩版画)があると発表された。
- とと様の言い分「懐が寂しいってンなら初めっからそう言えよ!同じ図柄でもお代に見合った色味で仕上げてやったモンをよ。こんなんで異国の連中の間で『日本人は相手によって値段を上げ下げする輩だ』なんて吹聴されたら堪らねぇサ!」
お栄「かか様も言ってたけどよォ。意地張ったっておまんまを食い上げちまいそうな有り様は変わんないのに、まったくとと様はさぁ」
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牛若丸に対する会話で言及される「鎮西八郎」とは、義経の叔父にあたる源為朝のことを指す。
平安時代の武将である彼の活躍を書き綴ったのが、セリフで言われる滝沢馬琴の『椿説弓張月』であり、北斎はその挿絵を担当していた。北斎と馬琴は『南総里見八犬伝』ほか数々のヒット小説を世に送り出した作家とイラストレーターのコンビであり、たいそう人気であったという。
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| | 「鎮西八郎」こと源為朝の武勇伝について
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源為朝は源氏の内ゲバで亡くなった一人である(源義仲といい源氏は内ゲバが多すぎである。だいたいは頼朝のせい)が、一説では落ち延びて琉球へ渡り、琉球王朝の始祖となったと言われている。
都で源頼政、平清盛という当代一流の弓の名手を「鵺とかwww清盛の方は鼠を撃っただけだしwww」とコケにしたせいで勘当されて九州に送り込まれると、鎮西総追捕使を自称して九州で大暴れし、数年で統一。とばっちりで父が解任されてしまった為、これはまずいと反省して都へ戻ってきた。
しかしそこで崇徳上皇と後白河天皇の内乱が勃発すると、上皇に請われた事で父と共に上皇側につき、天皇がたについた兄や弟と袂を分かつ事になる。
為朝は弓の名手として高名であり、あまりにも弓を引きすぎた結果、身体が弓を引くために最適化され、左手のほうが右手より長かったという逸話がある。
また内ゲバの際の活躍はかなりぶっ飛んでおり、列挙すると、
- 五人張りの弓で、挑発のために相手の兜の金具だけを撃って弾き飛ばす精密狙撃。
- 兄相手だろうが躊躇無しでぶっ放す。
- 一発の矢で鎧武者複数を貫通。
- 直撃即死は当たり前。矢を掠めただけでも手足が吹き飛ぶ。
- のっぶ「ねえねえこれ見て」 家康「なんですか? 槍?」 のっぶ「為朝の矢!」
- 勇戦及ばず敗れたものの、その武勇を惜しまれて、弓が引けぬよう腕の腱を切られただけで助命された。
が、どういうわけか腕の腱は繋がるわ、前よりさらに左腕が伸びるわ、「威力落ちたけど連射力と精度上がったわ!」とパワーアップして復活した挙句、流された伊豆地域の諸豪族を平らげてまたもやトップに立つ。
さすがにヤバいと思った本家が再び討伐軍を出し、多数の軍船が為朝の島に迫ると、この数には敵わじと思ったのか、辱めを受けぬように家族を自らの手で介錯。
そして弓を構え、討伐軍の軍船に渾身の一射。当然ながら命中し、200人が乗った軍船を一撃で轟沈させる。そのまま続けたら勝てたとかは言わない
- この結果に満足した為朝は自刃。記録上最初の切腹だと言われている。
そして、ここで死なずに落ち延びたifが『椿説弓張月』なのである。
- 琉球にたどり着いた為朝は、そこで琉球を襲う邪悪な怪物「禍」に対して立ち向かい、為朝を慕ってついて来た家臣たち、そして天狗となってなお彼を見守る崇徳上皇の力を借りて、ついにこれを討ち取る。
戦いを終えた為朝は己の役目を果たしたと考え、崇徳上皇の声に答えて天に昇り、後に残された嫡子が琉球王朝の創始者となる―――というお話である。
NHKの大河ドラマ「平清盛」にも登場しているが、その際公式サイトで「平安時代のモビルスーツ、現場ではガンダムと呼ばれた」と紹介していた。源氏のモビルスーツは化物か
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| | 葛飾北斎と滝沢馬琴との関係について
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曲亭馬琴(滝沢馬琴)と葛飾北斎は、多くの作品においてタッグを組んで活動しており、今で言えば人気ライトノベル作家と人気イラストレーターの関係そのものである。中でも『椿説弓張月』と『南総里見八犬伝』は今日でも知られている最も有名な作品の一つであろう。
長く作品を共にしてきた二人だが、ある時からぱったりと仕事をしなくなってしまい、一時期は絶交説なども囁かれた。が、実のところは両者ともに大ヒットの売れっ子になってしまって原稿料が高騰、二人に同時に依頼を出せる版元が存在しなくなってしまった為だという。
ちなみに不仲説というのは両者が相手のことを口汚く罵っていたため、というのであるが、お互いに関係ない知人への手紙などでは双方の技量を褒めちぎっており、まあ、ようは江戸っ子らしいツンデレ気質だったというのが真実であろう。
- ただし葛飾北斎のへそ曲がりっぷりには馬琴も閉口していたようで、指定とまったく違った挿絵をつけられる事については、散々に文句を述べていた。終いにはその偏屈ぶりを逆手にとったようで「右に置いておきたい登場人物を左と指示すると、北斎は必ず右に描いてくれる」と笑っていたとか。
余談ながら晩年の滝沢馬琴は目が衰え、北斎同様、義理の娘(息子の嫁)お路に仕事を手伝わせ、口述筆記というかたちで執筆を続けていた。
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▋戦闘中に表れる北斎の作品について
ここでは戦闘中に表れる北斎の作品関連についてまとめる。北斎・応為のエピソードも一部含まれる。
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| | 個々の作品についての解説
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- 名所絵『冨嶽三十六景』
葛飾北斎72歳からの代表作。「表富士」とも通称される36枚の富士山を描いた風景画であるが、好評を博したため10枚が加わった。追加された10枚は「裏富士」とも呼ばれるとのこと。
- 宝具「神奈川沖浪裏」は21番目。[EX]の「山下白雨」は32番に該当。この他、33番「凱風快晴」がよく取り上げられるだろうか。45番「甲州石班澤」は某国民的キャラクターの浮世絵のモチーフとされたこともある。
- 2010年には生誕250年記念としてGoogle日本版ホームページのロゴにも用いられた。
- 2019年度に発行予定の日本国パスポートのデザインとして、同作46枚の中から24枚が用いられることが決定している。
- 2024年度上期を目処に発行予定の新千円札紙幣において、裏面の図柄に「神奈川沖浪裏」が用いられる、という発表が日本国財務省より出されている。
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| | 作品についてのあれこれ
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- 折からの旅行ブーム(お伊勢参りが有名)に乗るように、浮世絵・錦絵(多色刷りの浮世絵のこと)の世界にも各地の名所を描く名所絵が登場したが、その決定版の一つとなったのがこの作品だった。ブームとはいえ庶民にとっては現代のように気軽に何度でも出向けるほどではないため、名所絵は人々の想像をかき立て、あるいは旅の思い出の1枚となった。
- 時々誤解されるが、実は冨嶽三十六景は「富士山が映り込んだ旅行風景や生活風景」を主に描いたものであり、富士をメインに描いたものは前述の「山下白雨」「凱風快晴」含む数点程度と意外に少ない。むしろよく見ないと分からないくらい小さく描かれたりすることも多く(「上総ノ海路」「尾州不二見原」など)、中には輪郭線一本のみで表現された富士すら存在する(「駿州江尻」)。
- 同年代に庶民から好評を博した別の名所絵としては、体験クエストにも登場した歌川広重の『東海道五十三次』が挙がる。江戸時代も後期の文化・文政年間、江戸の町人を中心に花開く「化政文化」の一翼を担う代表作たちであろう。
- 後に西欧にて日本文化が一大ブームをもたらし、オランダの画家ヴァン・ゴッホは画家仲間にも北斎の絵をはじめとする日本画を絶賛し伝えた。フランスでは作曲家C.ドビュッシーが交響曲『海』のスコア表紙に「神奈川沖浪裏」を用い、画家のH.リヴィエールは彼の浮世絵に触発されて独学で木版画技術を習得し『エッフェル塔三十六景』を作り上げるまでに至った。
- 色付けに用いられた顔料「紺青(プルシアンブルー)」は当時イギリスから清国経由で大量に輸入されて値崩れしていた。巷に出回る絵具を北斎も用いたのであろう。従来の染料にはない鮮やかな色は後述の『八方睨み鳳凰図』にも用いられた。
- 後述の美術館「北斎館」では「神奈川沖浪裏」がどういった工程で作られていったか――特に、北斎の下絵を元にして摺師がどのように一色ずつ重ねていったのかが図解されている。
企画主である版元、版元からの依頼を受けて北斎が担当する絵師(絵師から企画を持ちかけることも)、下絵を元に版木を彫り上げる彫師、色合いなどの指定に基づき版木から紙に刷り上げる摺師。北斎の作品に限らず、彼らの手を経て1枚の木版画は出来上がり、巷の好評を得て増す摺り(増刷)されて世に出回っていった。
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- 東町祭屋台天井絵『龍図』『鳳凰図』と、上町祭屋台天井絵『怒涛図』より「女浪」
いずれも「祭屋台」とあるように、祭りに出す屋台の天井絵を飾るものとして制作・奉納された肉筆画。
齢八十を超えてなお絵画への意気軒昂たる北斎が、信濃国の豪農・高井鴻山の拠点である松代藩(現在の長野県上高井郡小布施町)へと赴き、逗留する中で描いたものである。また、鴻山はこの縁が元で北斎一門に名を連ねることとなる。
- 現在も同町の美術館「北斎館」にて屋台そのものが保管・展示されており、天井絵は取り外されてより間近で観覧できる。祭屋台は昭和の初めまで実際に町を練り歩き、現在は長野県宝に指定されている。
- 「番外:北斎が描いた他の作品」に掲載する北斎の肉筆画や門弟たちの作品も多数展示されている。
- 2016年11月には北斎生誕の地とされる東京・墨田区内に「すみだ北斎美術館」が完成した。常設展・企画展で北斎の作品に接することができる。
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| | 作品についてのあれこれ
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- 『怒涛図』の「女浪」には対として「男浪」があり、こちらも北斎館では見ることができる。
- 天井絵のうち『怒涛図』の縁取りは北斎が下絵を描いて鴻山が仕上げたもの。「女浪」の縁取りには当時ご禁制とされたキリスト教の天使像が盛り込まれており、北斎の好奇心が伺える。
- バトル中に表れる龍と鳳凰を見ると、それぞれ時計回り・反時計回りで描かれている。これらは、宇宙のあらゆる物や現象が互いにバランスを取り合うことで世界の秩序が保たれるとする陰陽説に基づいた構図である。時計回りの龍は「陽」、反時計回りの鳳凰は「陰」を表し、互いに向き合う形を取っている。
- 戦闘中の北斎はさすがに背景までは描かないが、実際の『龍図』は鮮やかな紅色を、一方で『鳳凰図』は暗めの藍色を、それぞれ背景色としている。
紅地に躍る龍、深い青地に浮かび上がる極彩色の鳳凰と、こうした色の対比・調和もまた陰陽説に根ざすものとされる。
- この陰陽の思想を図で表したのが「太極図」で、両儀式の第3スキルのアイコンにもなっている。「陰陽魚」とも呼ばれるこの構図を、北斎は龍と鳳凰でなぞらえた。『怒涛図』の二つの浪も、回転させてつなげると太極図のS字っぽく見えるとか。
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| | 北斎が訪ねた豪農・高井鴻山について
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- 信州小布施の豪農・豪商である高井家は、江戸初期に同じ信濃国の東部、浅間山の山麓から移住してきたことから始まったとされる。室町・江戸期に各地で開かれた月6回の市「六斎市」での商いを土台に酒造業で財を成してゆき、やがて江戸や大阪、瀬戸内にまで届く広域を商いの場として、京都・九条家にも顔が利くほどの影響力を持つほどとなった。
- 元々は「市村」姓だったが、江戸中期・18世紀後半に起きた江戸四大飢饉の一つ「天明の大飢饉」において困窮した民衆を当時の当主が救った功績から「高井」の名字と帯刀が許された。その後、姓は元に戻ることとなるが現代にまで続いている。
御上「この一大事を乗り越えるため、金を用立ててはくれまいか」
当主「貸すのであれば、御上であれ後々で返済してもらわねばなりませぬ。飢饉で苦しいのはみんな一緒でしょう、ですからこの財は寄付として出します」
- その高井家の当主となった鴻山は、本名を市村三九郎という。
経営などの商才にはあまり恵まれなかった代わりに、学問や芸術への知識を幅広く備えるようになる。15歳からの京都や江戸への遊学の中で、書や浮世絵にはじまり儒学・漢学・国学・洋学などを修めた。
その学識をもって大塩平八郎や同郷の佐久間象山ら幕末の有名な学者・志士らと異国の迫る日本の将来についてなどの激論を交わしたり、文人墨客を自宅の書斎に招いたりした。そうした幅広い交流の中で誼を通じることとなるのが、葛飾北斎である。
- 一説には、江戸遊学中の鴻山の居候先が同じ小布施出身の呉服商「十八屋」で、その十八屋は画材の調達や資金の貸出で北斎の面倒を見ていたことから、ここを介して出会ったとされる。
- 江戸で交流の始まった北斎はその晩年に四度、小布施の鴻山の下を訪れ、ここに逗留している。
「なぜ北斎先生がここに…(汚部屋から)逃げたのか?自力で脱出を?」
北斎の訪問に感激した鴻山は自宅に北斎用のアトリエ「碧漪軒」を用意して全面的に創作活動をバックアップし、北斎もまた当時30代半ば過ぎの鴻山を「(高井の)旦那様」と呼び合う仲となった。冒頭の祭屋台天井絵はこの頃に、屋台の修復に際して鴻山からの依頼を受けて制作された。
- 北斎が江戸から200km以上も先にある北信濃を訪れた一因として、当時の情勢が考えられる。
『冨嶽三十六景』の完結と前後して、日本は江戸四大飢饉の4番目「天保の大飢饉」に見舞われた。その対策として娯楽を厳しく制限し質素倹約を強く叫ぶ「天保の改革」は北斎の活動にも影響することから、創作の場とパトロンを求めての長旅だったのかもしれない。
- 北斎一門となった鴻山自身の作品や北斎の肉筆画『日新除魔図』などは、北斎館やその向かいに立つ「高井鴻山記念館」で展示されることがある。
- お栄(葛飾応為)も二度目の小布施旅行の際に同行しており、応為号で精緻な百合の花の絵を描いている。この時、「北斎先生の娘さんが江戸から来るってよ!どんな別嬪さんが……オイこりゃおばあちゃんだよ!」と地元の人から反響があったとかなかったとか。むべなるかな、お栄さんも既に相応の年齢であったのだから。
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- 名所絵『諸国瀧廻り』
『冨嶽三十六景』と同じ頃に制作された名所絵。東は下野国(栃木県)から東海道・中山道を経て西は大和国(奈良県)までにある有名な滝八瀑を題材とした。
- FGO中ではこの内の一枚「木曽路ノ奥 阿弥陀ヶ瀧」の一部が用いられている。第3段階以降のセイントグラフで彼女の背景に浮かぶ波模様の水色の穴のようなものがこれに当たる。
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| | 作品についてのあれこれ
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- 阿弥陀ヶ瀧は岐阜県にある名瀑。長良川の最上流に位置し、名峰・白山への山岳信仰では滝行の地ともなった。昭和期には岐阜県の名水50選、平成期には日本の滝百選にも選ばれた。
- 絵の中では滝口(滝壺へと落ちる水の開始地点)までの川の上流として描かれており、ここから滝壺に向かって水が一気に流れ落ちる構図となっている。もちろん現実の滝口はこういった形状ではない。北斎が現地に出向いて下絵を描いたかは定かではなく、人伝いに聞いた滝をイメージして筆を執った可能性もある。
いずれにしても、水の流れを丸く描くというところが北斎の抜きん出た感性の一端とも言えよう。
- 2019年夏イベントでの登場となったセイバー版では、宝具として阿弥陀ヶ瀧を含む八瀑すべてが披露されるという大盤振る舞いとなった。
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- 絵本『富嶽百景』
全3巻から成る絵本。初版は『冨嶽三十六景』が完結した頃だが、好評を博してその後第2版・第3版と出版された。
- FGO中では第二編より「海上の不二」に描かれる千鳥が現れる。再臨第2段階以降で彼女の周りを水しぶきのように飛び回る。
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| | 作品についてのあれこれ
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- 「『冨嶽三十六景』だけじゃアまだ描き足りねエ。俺ァもっと不二のお山を”てえま”に描きたいのサ」とばかりに描いた計102枚のスケッチを製本した作品である。スケッチが元なので多色刷りではなくモノトーンではあるが、濃淡を使い分けて描かれている。
- 「その濃淡を版画でも表現し切ってもらいたい。薄墨はとことん、しじみ汁とどっこいなくらいに薄くで」と版元に注文をつけたと言われる。
- ”富士山とその周辺の景色、そこで生きる人々の営み”を『冨嶽三十六景』よりも意識したものが多い。そのためか、人々は真っ先に目に留まるのに富士山がどこに描かれているのかパッと見では分からないものもある。そこはとと様の遊び心とも言える。
- 一例として「盃中の不二」をここでは挙げたい。
お栄「とと様、こいつのどこにお山を入れたのサ?」
とと様「よく見ろィ、杯の中に映り込んでるだろうがよ。ほれ、座り込んで一息ついた親爺が手に持ってる」
立香「目ン玉ひん剥いてよォっく見ろィ!だね」
お栄「…遠山のお奉行様(同時代に実在)も有名になったモンだねえ」
- この作品を特に有名せしめたのは本作の後書き。老いてなお「神妙ならん」技巧の域へと燃える北斎の執念が見て取れる。詳細は上述の「北斎・応為父娘のエピソードあれこれ」内の北斎の欄にて。
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▋番外:北斎が描いた他の作品
浮世絵師・葛飾北斎がその生涯で描いた作品は大小合わせて実に3万点とも言われる。
以下ではFGO本編内には表れないが、前述のものに劣らない作品の一部を参考までに掲載する。
とと様があわよくば娘の身体を借りて女湯を覗こうとするただのエロ蛸ではない、歴とした稀代の天才画師であったことの一端を示せれば幸いである。
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| | FGO本編未登場の作品たち
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- 『柳下傘持美人図』:北斎30代後半での浮世絵。名所絵などを手がけるより30~40年も前、多くの画派を渡り歩いて研鑚を積んだ後にいよいよ「葛飾北斎」と名乗り始めるかという頃の作品。
- 『大達磨絵』:北斎50代での作品。名古屋を訪れた折、本願寺西別院の境内にて制作された。縦18m×横11m=たたみ120畳分にも及ぶ和紙を用いた文字通りの大作。第2次大戦の戦火により現物は焼失してしまっている。
- この大がかりな制作ショーは、その15年ほど前には江戸の音羽護国寺の境内でも催した。この他、彼女の体験クエスト中でも行った両国回向院での大きな布袋図の制作など、さながらライブパフォーマンスである。
- 『北斎漫画』『略画早指南』:それぞれ北斎50代での作品。門人や弟子が増えたところに北斎自身も多忙のため、手本書としての側面もある。現代風に言えば「これで北斎先生のようなイラストが描ける!ハウツー本」。
- 前者は元々が人物や動物や妖怪などの下絵を描いたものだが、これを版元がスケッチブックとしてまとめ発行した。人物画に至ってはさながら表情集である。瞬間の切り取りに長けた北斎ならではの作風は、後世におけるマンガの原型とも言える。
- 後者は前後編に分かれており、前編では定規とぶんまわし(コンパス)で引いた線で輪郭やアタリをつけて動物や昆虫などをどう描くかを図解し、後編では「へのへのもへじ」のように文字の形を絵に見立てていく手法を示している。
- 『諸国名橋奇覧』:『冨嶽三十六景』『諸国滝廻り』と同時期に制作された。滝廻りよりもさらに広く全国から計11本の橋を描いた名所絵。
- 京都の渡月橋、岩国の錦帯橋など実在する橋がほとんどだが、一部には伝説上のものも含まれる。
- 『肉筆画帖』:「塩鮭と鼠」「鰈と撫子」などなど、ごく身近な被写体を描いた計10枚の肉筆画。
- 作られた当時は「天保の大飢饉」の真っ只中で悠長に構えていられず、これらを描いて版元の店先で売ることで食い扶持をつないだとも伝えられている。
- 『日新除魔図』:北斎は晩年の日課として魔除けの唐獅子や獅子舞を描いていた。200枚余りが現存する肉筆画。
- 「描き終わるまでは来客にも会わねェ」と描くものの、いざ描き終わるとすぐに丸めて捨ててしまうので、お栄さんたちがもったいなさからか拾い集めたお陰で残ったとも言われる。
- 金の無心に来る放蕩な孫の問題やその煩わしさを払い除けたいという願いもこもっていたという説もある。
- 『富士越龍図』:死の3ヶ月前に描かれたとされる、おそらくは葛飾北斎最後の作品。
- 富士山から黒い雲と共に龍が天に昇っていく一枚は、百歳まで届かず絵の深奥にも手の届かない歯がゆさこそあれ、富士山を崇敬し浮世絵に生涯を捧げ切った自らを表したともされる。
- 『八方睨み鳳凰図』:小布施町に現存する北斎最晩年の肉筆画。町内にある曹洞宗梅洞山・岩松院本堂の天井を埋め尽くすサイズは畳21枚分にも及び、彼が手がけたと伝わる現存作品の中では最大級。描いてから天井に釣り上げて組み上げられたものと考えられている。
- 辰砂・孔雀石・石黄・鶏冠石・鉛丹などを基とした岩絵の具、当時流行となった花紺青などを膠の水溶液に溶いて描かれており、羽根や下地などに用いられた金箔は4000枚を上回る。当時の価格にして金150両もの高価な大作は、制作から150年以上が経つ現在にあっても塗り替えや修復が不要なほどに往時の色彩を留めている。
- 四度目の来訪での制作とされてきたが、「さすがに90歳も間近の北斎が現地で描くのは困難では?北斎一派の門人や応為が手伝ったのではないか?」との考証が為されている。
- 平成期に入り、当時の住職が隠し絵として富士山が描かれていることを発見した。不二のお山を愛した彼ならではの遊び心は老境にあってなお活き活きとしていたのだろう。
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| | 余談:岩松院に縁のある人物と、北斎へと連なる土地の縁
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- 岩松院には蛙合戦の池と呼ばれる小さな池があり、北斎と同時代の俳人・小林一茶が「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」と詠んだ場所であるという。
一茶の生まれ故郷も前述の小布施に近く、新潟県境に近い北国街道の宿場町・柏原であった。ナウマンゾウの化石が出土した野尻湖や、信州そばの一大スポット戸隠、武運長久の加護を求め長尾景虎たちの崇敬を集めた飯綱山にも近いと書けば、その筋が好物な”ますたあ殿”には位置関係が分かりやすいだろうか。
- 同じく岩松院には、豊臣秀吉子飼いの猛将・福島正則の霊廟がある。
秀吉亡き後、徳川家康に仕えた正則は関ヶ原の合戦の功績から安芸・備後2カ国を治めるほどの大名となった。ところが家康の死後、台風で壊れた広島城の修繕を行ったのが幕府に無断であるとの咎から領地を召し上げられ、北信濃の小さな藩主として減封・転封されたのだった。いわゆる武家諸法度への違反である。
しかし彼はこの地で亡くなるまでの5年間で領内をくまなく検地し、治水工事や田畑の開墾を進めるといった確かな業績を残している。
- この新田開発では近隣の村々からも人が集められたが、その中から地主にまで成長した久保田家からは、後に一茶の門人兼パトロンとなる久保田春耕が輩出されることとなる。
- より広く地域を見れば、武田信玄と上杉謙信が領有権を巡り長らく争い合ったエリアであり、両雄亡き後も織田信長配下の猛将・森長可が上杉方への牽制も兼ねて一時統治した。
前述の戸隠は古くより九頭竜信仰を集める山岳信仰の霊地だが、その力を受け継いで生まれたとされる酒呑童子は長じてこの山から丹波大江山へと移り住んだとする絵巻もある。
都から遠く雪深い土地ではあるが、ごく一部を切り取るだけでもこれだけの人物や伝承が登場するということは、ひとえに人々の営みが連綿と続く証でもある。
- こうして営まれ拓かれた土地でやがて高井家が財を成し、その高井家と知己を得ることとなる北斎によって、世界に誇る芸術作品が生み出される素地ができていったのだろうと考えるに、土地の育む歴史の繋がりや人の縁に思いを致さずにはいられない。
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▋ちなみに...
なかなかのお餅
- 主人公「ぬ、脱いだァー!? なかなかのお餅ー!」
鈴鹿御前「そっちかァー!? マスターにはこの正月に異物を喉に詰まらせて看護師の弾薬庫に運ばれる呪いをかけるし!」
- ニトクリスと身長も体重も一緒。
- 特異点ルルハワにおける一般向け(重要)な情熱と芸術の一大イベントでは珍奇で小粋なものばかりが溢れる街に興味を惹かれ、筆を走らせるには打って付けの大舞台へと乗り込む。が、さしもの火事と喧嘩を見て育った江戸の芸術家でもここで理不尽な破滅にさらされる運命に…。ループの中で主人公たちがこれに介入できれば、重大な転機を得ることとなろう。
- 2020年5月4日、日本全国の新聞を縦断するFGO5周年記念企画『Under the same sky』の第一弾として、静岡新聞へとと様と一緒に登場。「サーヴァントが日本各地の名所を訪れたら?」というコンセプトに対し、お栄さんが足を運んだのは富士山南麓。
いわく、「こっからってのはとと様も描いてねぇだろぉ?」陽光を浴びる茶畑を裾野と見立て、白雪を被る不二のお山。さながら富嶽三十六景・幻の47番目。
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