人物紹介 
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- 藤原道長。
一条天皇、三条天皇、後一条天皇の三代にわたり自身の娘を入内させて外戚として権勢を振るい、藤原氏による摂関政治を大成させた傑物公卿。
- 太政大臣・藤原兼家の子。道隆、道兼という有力な兄が存在していたが相次いで死没し、道隆の長男・伊周(清少納言が仕えた中宮定子の兄)との政争に打ち勝ち、藤原氏長者となる。
後に伊周が失脚すると左大臣として政権掌握。摂政太政大臣にまで上り詰めた。
- 紫式部が仕えた長女・彰子は一条天皇の中宮として後一条天皇を生み、更にその後一条天皇には三女の威子を立后している。
- 他、六女が嫁いだ敦良親王は道長の死後に天皇に即位している(後朱雀天皇)。
- 道長が左大臣に就任した際に次席の右大臣となったのは藤原顕光。権力争いの中で蘆屋道満に道長への呪詛を命じた人物。
- 藤原氏の摂関政治の頂点とも言える存在だが、道長自身は摂政にはごく僅かの期間しか、関白に至ってはそもそも就任していない。
これは摂政/関白は天皇の補佐役としての役割が強く、実際に政治を取り仕切るための発言力はむしろ官僚たちのほうにあったため。彼は天皇の外戚として有利なポジションに就きつつも、あくまでも実務的な立場である大臣のポストを優先したといえる。
- 兄の道隆、道兼よりも剛胆な性格であることが伝わっている。
父の兼家が才人の藤原公任と息子を比べて「公任の影も踏めまい」と言ったところ、兄ふたりが恥ずかしげに黙る一方で「影など踏まずに顔を踏んでやる」と答える、花山天皇が夜の内裏で肝試しを命じた際は兄ふたりが肝を潰して逃げ帰ったところ、道長だけは肝試しを完遂させた証拠である大極殿の柱の破片を持ち帰った、など。
- 上記の通り関白に就任したことはないが、法成寺を建立したことから「御堂関白」という呼称があり、『御堂関白日記』等で知られている。
- なお、日記には誤字が多い。「崩給(ほうじたまう)」を「萌給(もえたまう)」と書き違えるなど。
- 右肩には満月をモチーフにしたと思しき巨大な飾りがつけられている。
ケセランパサランではない。
由来は道長が自身の栄華を詠んだ「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世はまるで自分の世のように思え、満月のように欠けたものはない)の歌と思われる。
- なお、この歌は酒宴で作ったもので道長本人は日記に残さなかったが仲が悪かった藤原実資の日記に残されており、現在まで伝わっている。
- 衣装の胴部にあしらわれている紋様は「下り藤」という紋で、上から垂れ下がる藤の花をそのまま形にした、藤原氏の代表的な家紋である。
- 晩年は体調を大いに崩しており、残された症状の記録から糖尿病を患っていたのではと推察されている。
そのエピソードから、「第15回国際糖尿病会議」の記念切手に道長の肖像画が用いられた。
- 蘇(牛乳を煮詰めて作ったチーズのような菓子)に蜜をかけたものが大好物で、頻繁に食べていた。その一方で仏教信仰から、肉や魚は忌避していたという。
- 清子さん曰く「ミッチ」。ミッチーではない。
- ちなみに清少納言とは同い年で966年生まれ。
「地獄界曼荼羅 平安京」の舞台が1008年のため、作中で登場する道長は42歳となる。厄年。
- 紫式部曰く「ノーコメント」。
文学愛好家で度々、紫式部に『源氏物語』の続きを催促していたという。
また、紫式部を彰子の女官にスカウトしたのは、『源氏物語』の最新話をエサに天皇を彰子の元に通わせようと考えていたという説もある。
- 道長は『源氏物語』の主人公である「光源氏」のモデルとなったという説もある。
- 道長自身も和歌・漢詩について優れた技量を持つ文人であり、自身の歌集を残している他、勅撰歌集にも道長の和歌が収録されている。
- 政治家としては仏教の振興、経済政策、贅沢禁止の社会秩序統制などに取り組んでいた。
政務にはかなり熱心に取り組んでいたようで、上司の道長が中々休まないから自分も休めないという旨の愚痴を部下が日記に残している。
- 道長時代以降、公卿の政治的情熱が薄れたことが、貴族に代わり上皇や法皇、武士達が政治実権を握った遠因となっているという指摘も存在している。
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