人物紹介 
ゲームにおいて 
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- 石田三成。豊臣秀吉臣下の戦国武将。
秀吉の側近の一人で、秀吉が関白に就任した際に治部少輔に任じられたことから「石田治部少輔」という別名を持つ。幼名は佐吉。
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- 近江の豪族出身で、秀吉が織田信長から近江の長浜城主に任じられた時期に父や兄と共に仕官。
秀吉の小姓となる。
秀吉の側近として中国攻め、柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、小田原征伐や朝鮮出兵といった主要な戦いに従軍する他、堺や博多の鎮撫も務める。
秀吉死後の豊臣政権では重臣「五奉行」の一人として権勢を振るうが、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗北し処刑される。
- 「三成が反徳川派を纏めて負けた結果、徳川の天下となるのだから助命すべき」という本多正信の意見により三成の子供達は助命されておいる。
- 長男・石田重家は仏門に入り、後に春日局の側近となる祖心尼の師となる。
- 次男・石田重成は杉山と姓を変えて弘前藩家老職となり、その子の杉山吉成はシャクシャインの戦いの際に松前藩の援軍として派遣され、その報告を幕府に対し行っている。
末裔の杉山成知は函館戦争にて軍事総監として参戦して土方歳三らと戦っている。
- 次女・小石殿の孫のお振の方は春日局に養子入りして徳川家光の側室となり娘千代姫を産み、千代姫の末裔は皇室に繋がる。
- 三女:辰姫は2代当主・津軽信枚に嫁いで3代当主となる信義を産み、末裔には名君と称される8代当主・信明や11代当主・順承、さらに下って14代当主・義孝は馬事関連で活躍して輸入に携わった豪サラ馬の孫に第一次競馬ブームを起こしたハイセイコーが居る。
- 津軽信枚は天海の愛弟子で、弘前という都市の名付け親は天海である。
- 秀吉との出会いのきっかけとなった「三献茶」、大谷吉継との茶席での逸話など茶の湯と絡んだ有名エピソードを持つ戦国武将の1人。
- 「三献茶」とは秀吉が鷹狩りの際に立ち寄った寺で小姓をしていた三成が最初はぬるめのお茶を、次はやや熱く小ぶりな器のお茶を出し最後は更に小さな茶器で熱い茶の湯を振る舞ったという逸話。
この一件で秀吉は三成を高く評価して自分の配下として取り立てたと言われている。
- この逸話は元々は別の人物の物であり、千利休の弟子である京の喜斎(土屋喜斎)なる人物が利休に上述と同じ形で三献茶を振る舞い、関心した利休が弟子に取ったという物。
「茶道四祖伝書」に書かれたこの逸話が後年改変され、「武将感状記」においては三成の逸話とされた。
弟子の逸話が別人の話として伝わった利休の心や如何に。
- イベント「アークティック・サマーワールド! ~カルデア真夏の魔園観光~」のおまけシナリオ『休日の過ごし方』で、さり気なくなぎこさんが「三献茶」を再現しようとしていた。
- 大谷吉継との一件では、秀吉の開いた茶会において茶の回し飲みの際にらい病を患っていた吉継が膿を茶に垂らしてしまい、不潔に思った他の参加者が茶を飲んだふりをする中で三成だけが茶器に口をつけて飲み干したと言う逸話がある。
- ただし、こちらの逸話も出典がはっきりとしておらず、創作である可能性が高い。
- イベント内で茶々に揶揄されていた「忍城の戦い」とは、秀吉による小田原征伐の折、水攻めを試みた三成が失敗し、数倍の軍勢を率いながらも忍城を落とせず、小田原城降伏により北条家が滅びたことにより自ら開城した終戦。
小勢で天下人の大軍の攻めを凌ぎ切ったという伝承は人気が高く、これを題材にした「のぼうの城」など創作作品も多数存在する。
- とはいえ実際は水攻めを指示したのは秀吉であり、三成は逆に水攻めには反対する書状を秀吉に送っていたという話もある。
また、城攻めの戦術に際しても他の武将の指示を仰いでいたという説あり。
ほとほと呆れてたってどういうことだ猿
- この一件で「三成は戦下手」という風評が広まってしまい、関ヶ原の合戦にも影響を及ぼしたという説がある。
- 同じくイベント内で千利休に「五奉行筆頭」と言われているが、実際は五奉行の中での三成の位はあまり高くない。
基本的に五奉行による連名の際の三成の序列は三番手あるいは四番手とされる
- 徳川幕府の開祖に敗れて滅んだ事もあってか秀吉に媚びて保身を図る佞臣として書かれた話が多く、目下の者を顧みない厳しい人物に思われるが、真面目な印象や義理人情を感じさせる逸話もある。
- 秀吉にキリシタン弾圧を命じられた時には一部を見逃し、秀吉の怒りを宥めてキリシタンの死者を少なくしようとしており、忠義に篤いといっても主の命令は絶対に従うという事ではない。
- 淀川の氾濫に際し「土俵一俵を持ってきたら米俵一俵と交換する」と民へ布告して、雑に作られた場合はやり直させ、しっかり作られた土俵とは布告通りに交換して、短期間で決壊箇所を塞ぐ為の土俵を用意した。
土俵が米俵になるとは思っていなかった民達が三成に感謝すると「自分は殿の命令に従っただけで礼は殿に言うように」と言った。
- 七将襲撃事件後に佐和山で引退していた際に、使いとして来た家康の家臣を丁重に持て成し、帰還する時に三成自身が見送り、土産に当時としては異例の百貫の脇差しや小袖5つを持たせた。
- 家康に城の留守番を任されて討死にした鳥居元忠が守る伏見城を攻め落とした時、三成の元に連行された元忠の家臣に主の最期や城内の様子を尋ねて、元忠の忠義に感じ入りその事を遺族に伝えられるように馬を与えて送り出した。
- 関ケ原の戦い後、三成の居城である佐和山城を制圧した東軍は「三成は政権中枢に居ながら倹約に努めていたので佐和山城内に金品を蓄えてあるのでは?」と考えていたが金品は皆無に等しかった。
- 「奉公人は主君より受けた物を使い切って残してはならない。残すのは盗みだ。使い過ぎて借銭するのは愚人だ」と三成は言っており、後に三成に過ぎたるものと評される名将・島左近を登用する際には自分の石高の半分を出し惜しまずに与えている。
- 京都の町を引廻されている時に警護の者に湯を所望するも無かったので柿を出された際に「痰の毒になるから」と断り、これから死ぬのになぜ気にするのかと笑われると「大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」と答えている。
- 三成は当時下痢気味だったという話も有り、柿は水分が多く腹を下しやすくするので断るのは無理もないか。
柿の好悪については三成に柿を贈呈された記録が複数有り、好物であると書かれた物もある。
- 三成の処刑後、その子女はいずれも助命の嘆願、あるいは匿われて生き延びており、ただ周囲から嫌われていたのみでなく三成を慕う大名もまた多かったことが読み取れる。
- 家紋の「大一大万大吉」は「一人が皆の為に皆が一人の為に尽くせば天下は幸せになる」という意味で石田為久ら他の人物も使っている。
- 交流関係は大谷吉継とは親密だったが加藤清正や福島正則ら武断派とは険悪だった。
- 大谷との交流は深く、関ケ原の挙兵以前に「普段の横柄ぶりからして毛利輝元か宇喜多秀家を大将にして補佐に徹した方がいい」と諫言している。ただし後世の創作説あり。
- 毛利輝元から季節外れの桃が献上された時に、秀吉が桃にあたる事への懸念とあたった時の毛利家の事を考えての助言について「もっともな事である」と評される一方で「秀吉の権勢を笠に着て横柄」だと評されている。
横柄には次の2つの意味が有り、1・いばって、人を無視した態度をとること。2・無礼、無遠慮なこと。
前者というより後者寄りで正論だが無遠慮な言い方が気に食わないという意味合いかもしれない。
- 加藤や福島らとの対立理由は一部だが以下のように有り、日本国内に居る秀吉と現地諸将の板挟みになったと言える。
まさに中間管理職である。
・明との講和交渉を担当した小西行長が講和などで加藤と対立していた。
・大した抵抗を受けず進軍する加藤の報告を敵主力と対戦して苦戦する小西らが疑った。
・軍目付の福原長堯らの報告により蜂須賀家政と黒田長政の蔚山城の戦いにおける行動を秀吉に咎められ、蜂須賀と黒田が三成が妹婿の福原と共謀したのではと疑った。
- 諸大名との取次も担当していたがこれは中々難しい仕事で、良い結果になれば感謝されるが、取次役は手を尽くしたが大名が望んだ結果にならなかったり、取次役も想定していたか不明の手違いが有ると家が存続するか否かに繋がる事もあって「自分が冷遇されてるのは取次役が讒言したからでは?」と疑われたり恨まれる事もある。
- 前者にあたる津軽為信は関ケ原の戦いで周囲の情勢から東軍に属するも戦後に三成の親族を匿って臣従を取り次いだ恩を返した。
- 後者にあたる吉川広家は親交が有る黒田孝高・長政親子を通じた為、関ケ原本戦で後に「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれる事となる静観に徹する事となる。
- 鷹狩りを好んでおり、獲物を取れなかった時には悔しがり、沢山獲れた時には喜ぶ一面もある。
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- 創作物では秀吉への高い忠誠心を持ち内政に優れる一方で、真面目で融通が効かない性格とされることが多い。
そういった作品では石田三成を堅物だが秀吉への忠誠が強く実直で仲間への情に厚い人物として描いており、不器用なツンデレキャラとしての三成像に多大な影響を及ぼしている。
- 生前の回想シーンでは一貫して眼鏡を付けてない立ち絵となっているため、眼鏡はサーヴァント化して以降入手したものと思われる。
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