人物紹介 
ゲームにおいて 
小ネタ 
+
| | +クリックで展開
|
- 吉田松陰。幕末期の長州の思想家・学者。
幼少の頃から優れた才覚を認められ、4歳の頃より叔父から兵学を習い、9歳で藩校・明倫館の兵学師範に就任。11歳で藩主の御前講義を行い、13歳で長州軍による対異国船軍事演習の指揮を執った。
江戸で遊学中に佐久間象山や肥後藩の宮部鼎蔵ら多くの学者や志士と交流し兵学、砲術、西洋軍学など多種多様な知識や思想を学ぶ。
ペリーの黒船来航の折に同志と共に黒船への乗船を試みるが失敗し、投獄。
国許蟄居により長州に戻された後、叔父の開校していた私塾「松下村塾」を引き継いで主宰。
- 高杉晋作や入江九一、久坂玄瑞、吉田稔麿ら松下村塾四天王と呼ばれる俊才や、品川弥二郎、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、野村靖、山田顕義ら幕末維新で活躍した志士や、後の明治政府高官になる若者を指導。塾生以外では、後に維新三傑となる桂小五郎も弟子としていた。
- 弟子達は松陰の一君万民論を基軸とする尊皇思想や身分を問わない連帯による国家改革を目指す草莽崛起思想を継承し、また、その思想は長州藩内に留まらず、土佐の武市瑞山ら長州藩外の志士にも共鳴者を生み出す強い影響力を持った。
- 松下村塾の特徴は、武士や町人の身分なく塾生として迎え入れたこと、松陰による講義のみならず塾生と松陰が対等な立場で意見や議論を交わす方式も採用していたこと、学術だけでなく登山や水泳も行っていたことが挙げられる。
- 大老・井伊直弼らによる日米修好通商条約調印を受けて、松陰は幕府の対外政策・姿勢を激しく批判し、倒幕思想を形成する。
だが、幕府政策批判者に対する弾圧「安政の大獄」に際して、松陰の関係者が幕府高官の暗殺計画を企てた罪科で捕縛されたことに連座し、松陰も逮捕。評定所での取り調べにおいて老中暗殺計画を自白し処刑された。
享年29歳。
- 処刑に際しても威風堂々とした態度を崩さず、立ち会う役人に「御苦労様」と声を変えて一糸乱れぬ動きで端座して刑に臨んだと伝わる。
- 容姿について。
塾生の言を総合すると、容貌が醜く風采のあがらない小男という要素が概ね一致する。また、天然痘の痕が顔に残っていたという。
一方で、人の臓腑を射貫くが如き眼光を持っていたとも語られている。
- 人物像について。
普段は穏やかで心優しい性質というのが弟子らの証言に一致する。弟子相手にも丁寧な言葉遣いをしていた。
一見無愛想だが話し好きであり、松陰と会話した相手はその人間的魅力から彼を慕うようになることが多いという。
書画骨董や囲碁将棋に興味なく、酒も煙草もしない堅物で大食も避けていたが、客人には料理をしっかり振る舞っており、その内容は少量の珍味よりも大量の粗食を用意するという、質より量を優先するタイプ。
かなりの嫌煙家で、松陰の煙草無用・害悪論に感銘を受けた高杉晋作は自ら煙管を折っている。
結婚はしておらず生涯独身。女性との浮いた話も見られなかった。
- 人情に篤い一方で大義・正道には極めて強固な信念を持ち、大義のためには同志を殺すこともやむなしと平然と決断が下せる趣があり、弟子の野村靖からは「有情の極みは無情のことをあえてするのは辞さない」と評されている。
|