人物紹介 
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- 石田三成。豊臣秀吉臣下の戦国武将。
秀吉の側近の一人で、秀吉が関白に就任した際に治部少輔に任じられたことから「石田治部少輔」という別名を持つ。幼名は佐吉。
- 近江の豪族出身で、秀吉が織田信長から近江の長浜城主に任じられた時期に父や兄と共に仕官。秀吉の小姓となる。
秀吉の側近として中国攻め、柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、小田原征伐や朝鮮出兵といった主要な戦いに従軍する他、堺や博多の鎮撫も務める。
秀吉死後の豊臣政権では重臣「五奉行」の一人として権勢を振るうが、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗北し処刑される。
- 子供たちは助命されており、子孫には春日局の養子となった者や一軍の将として函館戦争を戦った者などがいる。
- 秀吉との出会いのきっかけとなった「三献茶」、大谷吉継との茶席での逸話など茶の湯と絡んだ有名エピソードを持つ戦国武将の1人。
- 「三献茶」とは秀吉が鷹狩りの際に立ち寄った寺で小姓をしていた三成が最初はぬるめのお茶を、次はやや熱く小ぶりな器のお茶を出し最後は更に小さな茶器で熱い茶の湯を振る舞ったという逸話。
この一件で秀吉は三成を高く評価して自分の配下として取り立てたと言われている。
- 大谷吉継との一件では、秀吉の開いた茶会において茶の回し飲みの際にらい病を患っていた義継が膿を茶に垂らしてしまい、不潔に思った他の参加者が茶を飲んだふりをする中で三成だけが茶器に口をつけて飲み干したと言う逸話がある。
- ただし、両話ともに出典がはっきりとしておらず、創作である可能性が高い。
- 徳川幕府の開祖に敗れて滅んだ事もあってか佞臣として書かれた話もあるが、真面目な印象や義理人情を感じさせる逸話もある。
- 七将襲撃事件後に佐和山で引退していた際に、使いとして来た家康の家臣を丁重に持て成し、帰還する時に三成自身が見送り、土産に当時としては異例の百貫の脇差しや小袖5つを持たせた。
- 家康に城の留守番を任されて討死にした鳥居元忠が守る伏見城の攻め落とした時、三成の元に連行された元忠の家臣に主の最期や城内の様子を尋ねて、元忠の忠義に感じ入りその事を遺族に伝えられるように馬を与えて送り出した。
- 関ケ原の戦い後、三成の居城である佐和山城を制圧した東軍は「三成は政権中枢に居ながら倹約に努めていたので佐和山城内に金品を蓄えてあるのでは?」と考えていたが金品は皆無に等しかった。
- 「奉公人は主君より受けた物を使い切って残してはならない。残すのは盗みだ。使い過ぎて借銭するのは愚人だ」と三成は言っており、後に三成に過ぎたるものと評される名将・島左近を登用する際には自分の石高の半分を出し惜しまずに与えている。
- 京都の町を引廻されている時に警護の者に湯を所望するも無かったので柿を出された際に「痰の毒になるから」と断り、これから死ぬのになぜ気にするのかと笑われると「大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」と答えている。
- 三成は当時下痢気味だったという話も有り、柿は水分が多く腹を下しやすくするので断るのは無理もないか。
柿の好悪については三成に柿を贈呈された記録が複数有り、好物であると書かれた物もある。
- 家紋の「大一大万大吉」は「一人が皆の為に皆が一人の為に尽くせば天下は幸せになる」という意味で石田為久ら他の人物も使っている。
- 「三成が反徳川派を纏めて負けた結果、徳川の天下となるのだから助命すべき」という本多正信の意見により三成の子供達は助命されている。
- 鷹狩りを好んでおり、獲物を取れなかった時には悔しがり、沢山獲れた時には喜ぶ一面もある。
- 創作物では秀吉への高い忠誠心を持ち内政に優れる一方で、真面目で融通が効かない性格とされることが多い。
近年のゲーム作品では戦国無双シリーズや戦国BASARAシリーズなどが有名だろうか。
そういった作品では石田三成を堅物だが秀吉への忠誠が強く実直で仲間への情に厚い人物として描いており、不器用なツンデレキャラとしての三成像に多大な影響を及ぼしている。
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