Sat, 13 Jan 2024 18:48:46 JST (433d)
人物紹介 
ゲームにおいて 
- キャラクターデザインは柳生但馬守宗矩と同じく古海鐘一氏が担当している(本人の公式サイトより)。
小ネタ 
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- 松平信綱。
元は大河内氏で松平氏に養子入りし、官職伊豆守の入った「松平伊豆守信綱」の呼称される。
江戸初期の政治家。江戸幕府の三代将軍・徳川家光、四代将軍・家綱の二代にわたり仕える。
家光時代は柳生但馬守宗矩、春日局と合わせ、将軍家を支える重要な3人という意味で「鼎の脚」と称された重臣。
老中として行政に力を示し、幕府諸法の制定や幕藩体制・鎖国政策ら江戸幕府の基盤確立に貢献する。
- 慶長元年(1596年)生まれで、元亀二年(1571年)生まれの柳生、天正七年(1579年)生まれの御局殿より20年ほど若年。
- 他にFateシリーズの登場済みの史実における関係者では、源頼光は清和源氏大河内氏の先祖。(大河内氏黎明期については仮冒説有り)
曲亭馬琴の先祖は信綱に仕えており、島原の乱では宮本武蔵とその養子伊織を指揮下に置いている。
- 当代屈指の知略家として名高く、伊豆守という官名と「知恵が出ずる」ことを掛けた「知恵伊豆」というあだ名を持っている。
同時代の人間からは「伊豆守のような者が一人いれば心配は無用」「伊豆守と知恵比べはしてはならない。その知恵は人間のものではない」と評されている。
- 知恵を鼻にかける傲慢な人物ではなく、余暇は親しい者を集めて政治談義を行う事を好み見聞を広める生真面目な堅物だったといわれる。
茶の湯や舞などの娯楽を好まず、下戸なので酒も飲まないこともあって人付き合いが苦手だったらしく、「才あれど徳なし(才能はあるが、人望が無い)」と評されていた。
一方その頃、同じ時期の徳川重臣は人の屋敷に押し掛けて舞を披露していた。
- 島原の乱に援軍として派遣されており、当初の総大将・板倉重昌の戦死に伴い幕府軍の総大将に就任。
兵糧攻めの献策を採用して反乱軍を鎮圧し、天草四郎の首実検を行い晒し首に処した。
また、家光没後に発生した由井正雪の乱の鎮圧にもあたっている。
- 島原の乱の幕府側関係者であることから、天草四郎や柳生宗矩のマテリアルにて名前が先行して登場していた。
- 島原の乱鎮圧の功績により川越藩主となり、同地にて街道・河川の整備や農業振興により政治手腕を振るっている。
また、明暦の大火(振袖火事)に際しては諸大名との対応や経済政策面から被害復旧に尽力している。
- 明暦の大火に際しては大奥女中の避難誘導を行っており、犠牲者を出さずに完遂している。
- 大火後、老中首座として独断で17家の参勤交代を免除し徳川頼宣に非難される。
その際、大火後の江戸に多くの大名が集まれば食糧が不足し、そのために民が飢えるのを防ぐためであり、責任は全て一人で負うと答え頼宣を感嘆させたという。
- 忠心に定評が有り、家光が往生した際に殉死しなかった事を非難されるが、先君の御恩を受けた者達が悉く殉死しては誰が徳川家を支えるのかと反論している。
- 幼年の家光の小姓だったころ、家光が秀忠の寝室の軒端に作られた雀の巣を欲しがり、取りに行った当時11歳の信綱はしくじって捕まってしまう。
秀忠に命じた相手を問われても「自分が欲しくてやった」と決して家光の名前を出さなかった。
業を煮やして袋に詰めて一晩放置されても同じことを言い続けた信綱の忠義に内心喜び、今後を戒めたうえで解放したという。
- 表情変化のみが基本のFGOの立ち絵としては珍しく首がぐるんぐるん動く。
- ダメージ立ち絵に至っては一枚別に描き下ろされている(通常は基本額から血が滴ったり傷から血が出ている程度の差分)。立ち絵的にはやたらと優遇されている御仁である。
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