概要

Sun, 30 Mar 2014 20:06:48 JST (3681d)
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麻雀とは Edit

麻雀(マージャン)とは中国を起源とし、世界中で親しまれている4人用(原則)の牌を使ったテーブルゲームである。

 

4人のプレイヤーがテーブルを囲み34種136枚の牌を引いて役を揃えることを数回行い、得点を重ねていくゲーム。
勝敗はゲーム終了時における得点の多寡と順位で決定される。
ゲームのルールは非常に複雑であるが発祥の地である中国のほか、日本、アメリカ合衆国などの国々で親しまれている。
現在の中国語においては麻雀のことを一般に「麻将」(マージャン májiàng)という。
「麻雀」(マーチュエ máquè)は中国語ではスズメを意味する。
ただし、広東語や台湾語では日本と同様に「麻雀」というのが普通である。
香港ではスズメと区別するために「蔴雀」と書くことがある。
日本においては34種類136枚の牌を使うのが一般的で、麻雀卓と呼ばれる麻雀専用のテーブルが用いられる。
麻雀卓などの専用の道具がなくともプレイできるように、カードにした簡易版の道具も市販されている。
使用する道具や採用するルールについては国や地域によって異なる点が多く、日本国内でも標準的とされるルールのほかに様々なローカルルールが存在する。
現在の日本では、家庭や麻雀店(雀荘)で遊ばれるほか、ゲームセンターや家庭用コンピュータゲームやオンラインゲームでもプレイすることが出来る。
昭和期における麻雀ブームの時期と比較すると雀荘の数や麻雀専門誌の数は減少傾向にあるが、コンピュータとの対戦やネットワークを通じた不特定の相手との対戦が可能になったことで、形を変えた人気を保っている。
また、効率性を思考することや指先の運動により認知症の予防にも役立つという説もある

歴史 Edit

歴史[編集]

中国における誕生[編集]
起源には諸説がある。紀元前6世紀頃、孔子が発明したという説もあるが[2]、有力ではない。
最も有力な説は清の同治年間(1862 - 1874年)に寧波の人陳魚門が、明代(1368 - 1644年)からあったカードゲーム「馬吊(馬弔、マーディアオ)」と「骨牌」というゲームを合体させて麻雀を完成させたというものである[3]。
語源については、麻布の上で行ったことと、竹製の牌を混ぜる時の音が雀の鳴き声に似ていることから付けられたとされる[4]。
1949年に中華人民共和国政府によって一旦、全てのギャンブルと共に禁止された[5]。しかし文化大革命の終結後、ギャンブルでない麻雀は許されるようになり1985年には禁止令が解除された[6]。
アメリカ合衆国における受容と発展[編集]

学校で麻雀を学ぶアメリカ合衆国の学生
1895年、アメリカ合衆国の人類学者スチュワート・カリンは麻雀に言及した記事を書いた。これは中国語以外の言語で書かれた最初の麻雀についての記述であった。1910年までにはフランス語や日本語の文献も出揃った。1920年、アバークロンビー・アンド・フィッチ社は初めて合衆国に麻雀を輸入し販売を開始した[7]。麻雀セットはニューヨーク市を中心にヒット商品となり、合計で12000セットを売り上げた[7] 。また、同時期にジョセフ・パーク・バブコックが世界初の麻雀本となる"Rules of Mah-Jongg"を出版した。
1920年代の合衆国で麻雀は全ての人種の間で流行しアメリカ式のルールや役が生まれ、多くの「マージャン・ナイト」が開かれた。人々は中国風の装飾が施された部屋に着飾って集まり、これに親しんだ[8]。エディ・カンターの"Since Ma is Playing Mah Jong"など、マージャンを主題にした流行歌も幾つか生まれた[9]。
1937年には初のルールブックとなる"Maajh: The American Version of the Ancient Chinese Game."が出版されるとともに、全米麻雀リーグ (National Mah Jongg League, NMJL) が発足した。しかし、合衆国における麻雀の流行は一過性のものに終わった。
1980年代にコンピュータ用ゲーム『上海』が登場して以来、「mahjong」「mahjongg」「mah-jang」という表現が再び一般的に使われるようになるが、それらは『上海』タイプのパズルゲームを指しており、中には麻雀牌以外の絵柄を使っているものも存在する[2][3]。
日本における受容と発展[編集]
初期[編集]
日本人で初めて麻雀に言及したのはおそらく夏目漱石で、『満韓ところどころ』(1909年)に大連での見聞として「四人で博奕を打っていた。(略)厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた」とある。実際の牌が日本に伝わったのも明治末期で大正中期以降はルール面において独自の変化を遂げつつ各地に広まっていったともいうが、一般に認知されるようになったのは関東大震災の後である。神楽坂のカフェー・プランタンで文藝春秋の菊池寛らが麻雀に熱中し、次第に雑誌等にも取上げられるようになった。文藝春秋社では自ら麻雀牌を販売していた。
第二次麻雀ブーム[編集]
第二次世界大戦後、「途中リーチ」(現在のリーチ)などを含めた新ルールやアメリカ式麻雀が取り入れられるようになり、アレンジを加えられた麻雀(日本麻雀)が主流を占めるようになった。戦前に行われていた支那(中国)麻雀は、1947年に再建された日本麻雀連盟などを中心に現在も行われてはいるが、次第に主流からは外れていった[10]1965年、阿佐田哲也は『麻雀放浪記』シリーズの連載を開始。1970年には阿佐田、小島武夫、古川凱章らが麻雀新撰組を結成[11]。1972年には『近代麻雀』が創刊され、麻雀ブームが起きた。この時期、多くの大学生やサラリーマンが手軽な小遣い稼ぎやコミュニケーションツールとして麻雀に親しんだ。しかし、同時に賭博・喫煙・飲酒などの不健康なイメージが広がったため、1988年にはそれらを廃して麻雀を楽しむことを目的とした日本健康麻将協会が設立された(#健康マージャンも参照)[12]。
麻雀ゲームの普及[編集]
麻雀におけるコンピュータゲームの普及は1975年頃からであるが、業務用(アーケードゲーム)で現在のものに近いゲームシステムが導入された最初の麻雀コンピュータゲームは1981年3月のジャンピューター(アルファ電子)であった。このゲームは一世を風靡し、ゲームセンターや喫茶店に数多く見ることができた。その後、対戦相手のコンピュータの画像を女性をモチーフとしプレイヤーが勝つ毎にその女性の衣服を脱がせるという、いわゆる「脱衣麻雀」のコンセプトが大当たりした。年代と共に映像技術も向上し、性能や官能性もアップした。ゲームセンターでは麻雀ゲームはアダルトゲームの代名詞でもあった。
2002年には通信機能を持たせ全国の人と対戦できる形のコンピュータ麻雀ゲーム『麻雀格闘倶楽部』が稼動を開始し、2004年には携帯麻雀ゲーム『雀ナビ四人麻雀オンライン』が稼動を開始した[13]。
1990年代以降[編集]
1990年、天野晴夫が『リーチ麻雀論改革派』(南雲社)において麻雀戦術論からの抽象の排除を提唱した。その中で小島、田村光昭など当時の有名麻雀プロや在野の桜井章一らの麻雀論を「ツキ」「勘」「流れ」といった抽象論に支配されている非科学的なものであると批判した。天野は抽象的な要因を考慮することは的確な情報判断を鈍らせる原因にこそなれ、麻雀の上達には繋がらないと主張した。これがいわゆる「デジタル雀士」のさきがけである。
2004年、とつげき東北の『科学する麻雀』が講談社現代新書から出版された。とつげきは前の局の結果が次の局に影響を及ぼすとするいわゆる「流れ論」を徹底的に否定しており、本著でも確率論を基礎とした統計学的な麻雀戦略を提唱している。「このような時にはこう打つ」と明確にかつ論理的に場面に応じた打ち方を指導している点が特徴である。
これらデジタル麻雀に対して「ツキ」「勘」「流れ」を重視する雀士も多く、そのような戦術論はアナログやオカルトと呼ばれている。なおデジタルとオカルトのどちらにも属さない雀士も存在し、「打点」「相手に与えるダメージ」「心理的な押し引き」などを重視し「打撃系」と呼ばれている。
国際的な普及[編集]

2002 世界麻雀選手権大会表彰式
2002年10月23日から27日にかけて、東京で「2002 世界麻雀選手権大会」が開催される。日本の初音舞が優勝し、ジョン・オコーナーが準優勝した[14]。2006年に世界麻雀機構 (WMO) が設立され、中国の北京に本部が置かれた。翌2007年には、11月3日から5日にかけて、中国の成都で「世界麻雀選手権大会」が開催された。公式にはこの大会が「第1回」として扱われる。
また、WMO主催の大会以外にもマカオのWorld Mahjong ltd.が2007年から賞金制の世界大会「世界麻雀大会」(World Series Of Mahjong) を主催しており、1位にはアメリカドルで50万ドル支払われる。
2008年の北京オリンピックでは将棋とともに公開競技としての導入が図られたが、国際オリンピック委員会から却下された。

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