まつじ/情熱の舟
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ふたつのレンズを丁寧に拭いて眼鏡をかけなおし、とにかく俺は少し家を出ることにした、と言ってのちあなたは浴室から忽然と姿を消した。
持って入った玩具の舟も無い。
なるほど、出たくなったのだなと、わたしはそれから、少し広いベッドの右半分で夢を見るようになる。
わたしの左の、随分と広い広い海で、あなたを探して、舟を漕ぐ。遮るもののない海原で強い陽射しがひどく眩しいが、この波を辿ればあなたを見付けられるだろうか、遠く水平線の向こうに嵐の予感があるのに報せようがなくて目を覚まし、この部屋で待っていなくちゃあいけないのだものと言ってばかりでも心配してくれる知人を困らせるだけなので、部屋を守らなければならないことでもあり、一旦留守にし、用が済めば帰って浴室を洗う。きっと疲れているだろうから浴槽にお湯を張っておくことにして、その間に、もそもそと食事を摂り、ほどなくして、果てのないように見えるわたしの隣の海に出て再びあなたと出合う事を望む。遮るもののないこの舟で、口唇などを重ね、その喜びを感じたいと願う。嵐を抜けて、突然のように帰ってくるに違いないあなたを湯船に浸かり思い目を閉じると一瞬、海に落ちそうになったが、なんとか舟は転覆せずに済んだので、あなたのいそうな方角へ向かい波を掻き進める。
左手に、あなたを求める。
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評価/感想 
初出/概要 
超短篇・500文字の心臓 / 第119回競作「情熱の舟」 / 参加作
執筆年 
2013年?