まつじ/桃色涙
Last-modified: Wed, 25 Aug 2021 23:31:30 JST (574d)
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おう、生きてやがった。
人の顔を見てそう言うなり、父は死んでしまった。父らしいといえば父らしい。
最期なんだったら、お袋にもっと気の利いたこと言やあいいのに。と私が言うと、母は、そうねえ、と笑った。
母は泣かなかった。
ちょっと、寂しくなるねえ、と呟いて、庭の木を眺めていた。
まもなく母の容態も悪くなり、私は放蕩するのを止めて家に居ついた。
調子がいいと母は、庭に出ることが多かった。
桃の木は、祖父の代よりもずっと以前から、この家にあるのだそうだ。
今の時期、花は咲いていなかった。
息を引き取った母の懐には、白い小さな布が二つ、しまわれていた。
父が死に、母が死んでも私は泣かなかったが、やがて結婚し、出産の折、母子ともに危険な状態を乗り越え助かった、と妻と赤ん坊の顔を見た途端、涙がこぼれた。
恥ずかしいから誰にも言うなよ、と言うと、妻が笑った。
そのときの涙と、長男が生まれてはじめて流した涙を拭った、小さな布切れを二つ、妻は大事に持っている。
どちらも、白い布地に薄桃色の染みがあるのだった。
子どもが庭で遊んでいる。
もう少ししたら今年も咲くだろうかと話しながら妻と二人、縁側に座りその様子を眺めている。
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評価/感想 
初出/概要 
超短篇・500文字の心臓 / MSGP2006 準々決勝第1試合参加作
執筆年 
2006年?
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