茶室_武家_武家解説 のバックアップ(No.9)
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織田

織田(おだ)家は、尾張国(現在の愛知県)を平定後、東海、近畿を次々に制圧し、戦国乱世を風靡した武家。織田信長(のぶなが)が家督を相続後、一代で大勢力を築いた。
信長は急進的な政策や苛烈な兵略を用いたため諸侯に恐れられ、勢力の内外に多くの敵を作り、ついには腹心である明智光秀の謀反により討たれた。以降、遺臣は豊臣家などに吸収され、織田家の勢力は急速に衰えた。
家紋「織田木瓜(おだもっこう)」は、織田家の用いた木瓜紋の意で、別名「織田瓜(おだか)」とも。輪切りにした瓜の断面を図案にしたものとされている。複数の卵を抱く鳥の巣のようにも見えるため、子孫繁栄の兆しとして尊ばれた。
徳川

徳川(とくがわ)家は、三河国(現在の愛知県東部)を起点に、東日本に大勢力を築いた武家。当主は徳川家康(いえやす)である。
家康は幼少の頃、今川義元(いまがわよしもと)の人質となったが桶狭間(おけはざま)の合戦後に独立した。のち織田家と同盟して武田家を滅ぼすなど東方に勢力を広げ、豊臣家には臣従したものの、武蔵国(東京都と埼玉県)を中心とする大領地を得た。以降、豊臣家に継ぐ勢力と権威を保持し、秀吉も一目置く存在であり続けた。
戦勝祈願の出陣式を行う際、鮑(あわび)、栗、昆布の三品を葵(あおい)の葉に乗せて供物にすると勝利を得られるという縁起から、家紋に「三つ葉葵(みつばあおい)」が選ばれたと伝わる。
豊臣

豊臣(とよとみ)家は、本能寺の変後の動乱を制し、天下統一を果たした武家。主な当主に豊臣秀吉(ひでよし)、豊臣秀頼(ひでより)父子がいる。
秀吉は、織田信長に仕え、目覚ましい功績で異例の出世を果たし、地方攻略を一任されるほどの重臣に抜擢される。そして信長の急死後、旧織田家臣を吸収して念願の統一を成し遂げた。秀吉が打ち出した検地や刀狩りは大いに政権を安定させたが、年を経るごとに秀吉の猜疑心が強まり、甥の秀次を粛正するなど非情な一面を見せるようになったため、豊臣家の求心力も自ずと弱まっていった。
家紋「五七桐紋(ごしちのきりもん)」は、皇室の御紋の一種で、朝廷より秀吉に下賜された。左右に五つずつ、中央に七つの桐の花が配置されるためこの名がある。
真田

真田(さなだ)家は、武田家に仕えたのち、信濃国(現在の長野県)東部の上田に本拠を置いた武家。著名な人物に真田昌幸(まさゆき)、真田幸村(ゆきむら)ら父子がいる。
昌幸は、武田家の滅亡に伴って独立を果たし、本能寺の変後の混乱に乗じて領土の防衛、拡大に乗り出す。上杉、北条、徳川の強豪に挟まれながらも剛柔巧みに出方を使い分け、特に徳川家とは激しく対立し禍根を残したとされる。のち次男、幸村を人質として差し出し、豊臣秀吉に臣従を申し入れた。
家紋「真田六文銭(さなだろくもんせん)」は、死者が渡るという三途の川の渡し賃を表し、いつでも死ぬ覚悟はできているという気概を示すものだとされる。
石田

石田(いしだ)家は、豊臣政権の幕僚として、近江国(現在の滋賀県)の佐和山(さわやま)を領地とした武家。有名な当主は石田三成(みつなり)。
三成は、豪族の子として幼少より豊臣秀吉に仕えて軍政面で活躍し、秀吉の天下統一後、奉行職に抜擢された。他勢力からの取り次ぎ役などをこなして秀吉に信任されたが、戦陣での現場指揮を得意とする加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らとは折り合いを欠き、修復し難い確執を生じさせることになった。
石田家の旗印「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」は、万民が一人のため、一人が万民のため尽くせば大吉たる平和が訪れるとの教えを、三成が自らの理念として掲げたものと伝わる。
大谷

大谷(おおたに)家は、近江国(現在の滋賀県)南部に祖を持つ武家で、越前国(福井県)の敦賀(つるが)を治めた。有名な当主には大谷吉継(よしつぐ)がいる。
豊臣秀吉が近江の長浜(ながはま)に領地を与えられた頃、吉継は雑用役の小姓として秀吉に仕官。その後も中国攻めや賤ヶ岳(しずがたけ)で功を立て、大名として取り立てられ奉行職にも任じられた。同僚の石田三成とは任地で行動を共にする機会が多く、刎頚(ふんけい)の交わりとされるほど絆が強かったという。
家紋「対い蝶(むかいちょう)」は向かい合った二匹の蝶を描いたもの。幼虫から蝶に変貌する様は美しい転生の象徴とされ、病に侵されて衰えゆく吉継の、蝶への強い憧れがうかがい知れる。
加藤

加藤(かとう)家は、平民より出て豊臣家に仕え、のち肥後国(現在の熊本県)の北部を治めた武家。著名な当主に加藤清正(きよまさ)がいる。
清正は豊臣秀吉に小姓として仕え始め、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで七本槍(しちほんやり)とされる殊勲を残す。以降、秀吉子飼いの将として活躍し、九州平定に参加、肥後半国を与えられて大名となった。長年の同僚である石田三成とは折り合いが悪く、溝を深めていくことになる。
家紋である「蛇の目(じゃのめ)」は蛇の目を模したもの。蛇に鋭い目で見据えられた獲物は動きを封じられるとされ、古代より呪符として使用されてきた図案であるという。
浅井

浅井(あざい)家は、近江国(現在の滋賀県)北部を治めていた武家。著名な当主に、織田信長の義弟である浅井長政(ながまさ)がいる。
長政は信長の妹・市を妻に迎えて織田家と同盟を結んだ。しかし、長年の盟友である越前朝倉家が織田家と敵対すると、長政は朝倉家に加担。激怒した信長によって、朝倉家ともども滅ぼされた。
家紋「三つ盛亀甲に花菱(みつもりきっこうにはなびし)」は、長政一代が用いた家紋であるとされる。
その由来は定かではないが、亀甲は北方を守護する亀の姿をした聖獣を指すという説もあり、近江北部を支配する長政が、聖獣の加護にあやかろうとしたのかもしれない。
今川

今川(いまがわ)家は、駿河国(現在の静岡県)を本拠に広大な領地を支配した武家。著名な当主に、今川義元(よしもと)、氏真(うじまさ)の父子がいる。
将軍家一門の家柄で、「足利が絶えれば吉良が、吉良が絶えれば今川が将軍位を継ぐ」とされていた。その勢力圏は、駿河、遠江、三河の三国に及び、最盛期を築いた義元は「海道一の弓取り」と称された。尾張に侵攻するも、桶狭間の合戦で織田信長にまさかの敗北を喫し、以降は衰退の一途をたどることになった。
家紋「赤鳥(あかとり)」は、櫛の汚れを取る「垢取り」を意匠化したもの。家祖の今川範国(のりくに)が、「赤鳥と共に戦えば勝つ」との神託を得たことに由来する。
竹中

竹中(たけなか)家は、美濃国(現在の岐阜県)に領地のあった武家。著名な当主に、竹中重治(しげはる、通称は半兵衛)がいる。
美濃斎藤家の家臣で、斎藤義龍、龍興に仕えた。若年の龍興が酒色に溺れて政務を顧みなかったため、半兵衛は僅かな手勢で稲葉山城を乗っ取って龍興を戒めた逸話が有名。織田信長の美濃侵攻後は豊臣秀吉に軍師として仕え、その智謀から後に「今孔明」と称された。
家紋「九枚笹(くまいざさ)」は、笹紋の一種で笹の葉を九枚並べたもの。家紋の笹は竹と同じとされ、真っすぐ上に伸びる竹は縁起が良いとされる。
前田

前田(まえだ)家は、織田家に仕え、のち能登国(現在の石川県北部)および加賀国(石川県南部)を治めた武家。著名な当主に前田利家(としいえ)がいる。
若かりし頃、槍の又左と呼ばれた利家は、織田家中で刃傷沙汰を興して一時出奔するも、美濃斎藤家との合戦に無断で参陣して武功を挙げ、信長に帰参を許された。その後は柴田勝家の寄騎として北陸方面で活躍。信長の死後、勝家と袂を分かち秀吉に臣従する。豊臣政権下では五大老の筆頭格に上り詰め、加賀百万石の礎を築いた。
家紋である「加賀梅鉢(かがうめばち)」は、前田家の祖先とされる菅原道真(すがわらのみちざね)が好んだ梅の花を図案化したもの。花の中心部には、小型の剣が添えてある。
島津

島津(しまづ)家は、薩摩国(現在の鹿児島県西部)に拠点を置き、大隅(鹿児島県東部)や日向(宮崎県)を支配した武家。主な人物には島津義久(よしひさ)、島津義弘(よしひろ)ら兄弟がいる。
義久らは、伊東家を破って薩摩、大隅、日向の三州を統一後、領土拡大を企図して北上。耳川(みみがわ)で大友家、沖田畷(おきたなわて)で龍造寺家に大勝するが、九州統一の目前で豊臣秀吉の派遣した征伐軍に降伏する。この際、義弘のみは徹底抗戦の構えを崩そうとせず、以後も鬼島津の異名で畏怖されることになる。
家紋は十文字に円を加えた「丸に十字」。鎌倉時代以前に十字を描いて厄除けとする風習が大陸より伝わり、神聖なものとされたという。
毛利

毛利(もうり)家は、中国地方全域を支配していた武家。著名な当主に毛利元就(もとなり)、毛利輝元(てるもと)がいる。
元就は安芸国(現在の広島県)の小領主だったが、権謀術数をもって勢力を拡大、その手腕から謀神と称される。元就の死後は、その息子たちが養子に入った吉川(きっかわ)家、小早川(こばやかわ)家が毛利本家を支え、孫の輝元の代まで磐石の体制で勢力を保ち続けた。
家紋である「一文字三つ星(いちもんじにみつぼし)」は、家祖が得ていた一品の位階を図案化したもの。また、三つ星には戦神として信仰される将軍星(オリオン座中央の星々)の意味も込められている。
黒田

黒田(くろだ)家は、筑前国(現代の福岡県西部)を主に治めていた武家。著名な当主に人物として黒田官兵衛(かんべえ)、黒田長政(ながまさ)の父子がいる。
官兵衛、長政は知勇を活かして織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者の下で目覚ましい働きをし、黒田家を指折りの大名へと押し上げた。
家紋である「藤巴(ふじどもえ)」は、藤の花を図案化したものである。官兵衛が敵将の罠に嵌り土牢へ幽閉されていた際、健気に咲く藤の花が獄窓から見えた。この藤の花によって励まされた官兵衛は、一年にもわたる獄中生活に耐え、出獄後に藤を家紋としたのだと伝えられている。
立花

立花(たちばな)家は、豊後国(現在の大分県)の大友家の配下として活躍し、のち筑後国(福岡県南部)の柳河(やながわ)を領地とした武家。著名な人物として立花宗茂(むねしげ)、立花誾千代(ぎんちよ)の夫妻がいる。
宗茂は高橋家に生まれたが、闇千代を妻とし、婿養子に入って立花の名跡を継いだ。雷神と呼ばれた先代、道雪(どうせつ)に劣らぬ猛将ぶりを夫妻力合わせて発揮し、島津家などと激戦を交わした。豊臣秀吉の九州征伐後、筑後に領土を得る。
家紋「抱き花杏葉(だきはなぎょうよう)」は、大友家臣団に多用された紋で、左右一対の杏葉の図案。杏葉は植物で作られる馬具の一種で、大陸より伝来し小粋な飾りとして武家に流行したとされる。
吉川

吉川(きっかわ)家は、安芸国(現在の広島県)に始まり中国地方を下し、のち出雲国や伯耆国(ともに島根県)を治めた武家。著名な当主には吉川元春(もとはる)、吉川広家(ひろいえ)がいる。
元春は毛利元就の次男として生まれ吉川家の養子となりこれを相続。小早川家と並んで毛利宗家を支える両川(りょうせん)となり、その覇業を助けた。その後家督を継いだ広家も堅実な働きを豊臣秀吉に認められ、豊臣および羽柴姓を賜り、秀吉の養女を妻に迎えている。
家紋「三つ引両(みつひきりょう)」は、線を平行に並べた引両紋の一種。祖たる元就の三矢(さんし)の教えにちなみ、三本の線で構成される三つ引を選んだと推測される。
井伊

井伊(いい)家は、遠江国(現在の静岡県西部)を拠点とし、のち上野国(群馬県)などを治めた武家。著名な当主に井伊直虎(なおとら)、井伊直政(なおまさ)がいる。
戦や内紛で相次いで主たる男手を失い、井伊谷にあった本拠を今川家に奪われかけるが、直虎が女性ながら家督を継いで家中を取りまとめ、徳川家康と結んで今川家を駆逐したとされる。のち、その養子、直政も若年より家康に仕え、赤備え(あかぞなえ)を率いて赤鬼の綽名で恐れられ、徳川四天王のひとりに列される業績を残した。
家紋「丸に橘(まるにたちばな)」は、四姓の源平藤橘のうち橘氏に連なる家紋のひとつ。橘は蜜柑(みかん)に似た植物で、高い生命力の象徴とされる。
大友

大友(おおとも)家は、豊後国(現在の大分県)を治めた武家。著名な当主に大友宗麟(そうりん)がいる。
代々豊後国を治める守護大名で、宗麟の代には北九州全域にその勢力を拡大し、龍造寺家や島津家と九州の覇権を争った。やがて島津家との争いに窮すると、全国統一を進める豊臣秀吉に臣従を申し入れて九州征伐を促した。宗麟はキリシタン大名としても知られる。
家紋「抱き杏葉(だきぎょうよう)」は、異国の馬が着けた装飾具を意匠化したものとされる。北九州では権威の象徴として扱われていた。
本多

本多(ほんだ)家は、徳川家に最古参の譜代として仕え、上総国(現在の千葉県中央部)などに領地を与えられた武家。著名な当主に本多忠勝(ただかつ)がいる。
忠勝は、徳川家康の指揮の下、今川勢として桶狭間の合戦にて初陣。以降、德川家の主な戦闘のほとんどに参陣する。単騎突出などの豪勇を発揮しながらも巧みな采配で切り傷ひとつ負わず、敵味方問わず称賛され、東国無双とまで異名された。徳川四天王のひとり。
家紋「丸に立ち葵(まるにたちあおい)」は、徳川家の「三つ葉葵(みつばあおい)」と同じく葵紋の一種。本多家の先祖は京の賀茂神社の神職とされ、その神紋の「(二葉)葵」が由来とされる。「本多立ち葵」の別名もある。
松永

松永(まつなが)家は、三好(みよし)家に仕えて畿内一円を制し、大和国(現在の奈良県)などを本拠とした武家。著名な人物に松永久秀(ひさひで)がいる。
久秀は、三好長慶(ながよし)に重用されて足利将軍家を京から追放するなど活躍したが、次第に主家を圧倒する勢力を誇るようになり、三好家重臣と叛服常なき抗争を繰り広げた。なりふり構わぬ大胆な戦術は東大寺大仏殿を焼いたことでも有名である。のち織田信長に臣従する形で所領を守ったが、裏切りを重ねてついに信長に討たれた。
家紋「蔦(つた)」は、蔓(つる)科の植物を模した図柄。地を覆うように生い茂る力強い姿には、素性も定かでない身分から戦国大名に上り詰めた久秀の、雑草のようなたくましさが感じられる。
雑賀

雑賀(さいか)衆は、紀伊国(現在の和歌山県)西部を本拠とした地侍の集団。特定の主君を持たず、依頼に応じて各地へ傭兵を派遣し、鉄砲を巧みに用いたことから恐れられた。著名な人物に雑賀孫一(まごいち)がいる。
孫一は雑賀衆の頭領が引き継いだ名前とされ、複数いたとも伝わる。本願寺の勢力と結んで一向一揆を助けたり、石山本願寺に籠城したりし、織田軍とも壮絶な死闘を繰り広げたという。のち豊臣秀吉の紀州攻めを受けて降伏したが、傭兵たちは全国に散り活躍し続けた。
家紋「八咫烏(やたがらす)」は、鳥紋(からすもん)の一種で、熊野神官を祖とし姓を鈴木とする雑賀衆が使用。日本神話の英雄を道案内した八咫烏は真実をはるか遠くまで見通すといい、砲術に重きを置く雑賀衆に神格化された。
伊達

伊達(だて)家は、陸奥国の伊達(現在の福島県北部)を起点に勢力を広げ、奥州一帯(東北地方)を制した武家。最盛期の当主は伊達政宗(まさむね)である。
政宗は家督の相続後、最上(もがみ)、蘆名(あしな)、佐竹らの群雄と抗争。人取橋(ひととりばし)の敗戦で一時失速を余儀なくされるも、数年にして奥州を席巻し、独眼竜の呼び名で恐れられた。豊臣秀吉には屈服するが、その後も野心たくましく天下の形勢をうかがい、謀反の嫌疑をたびたびかけられたという。
家紋「竹に二羽飛雀(たけににわとびすずめ)」は、かつて関東管領の上杉家へ養子を出そうとした際、上杉家から譲り受けたもの。「仙台笹(せんだいささ)」とも呼ばれる。
上杉

上杉(うえすぎ)家は、越後国(現在の新潟県)を始め、関東諸国にも多くの領国を有し、鎌倉時代から続く名門の武家。著名な当主に上杉謙信(けんしん)、上杉景勝(かげかつ)がいる。
名門で関東管領も務めた上杉家は、内紛などで衰亡に瀕するも、長尾景虎(のちの上杉謙信)に名跡を譲り再興。謙信は川中島では武田家と激闘し、北条家や織田家とも版図を奪い合い、軍神と呼ばれるほどの戦上手を誇った。また、謙信急死後に家督争いを制した景勝は、豊臣家への臣従後、会津に加増移封となり、関東を領する徳川家康との対立を深めた。
家紋「竹に飛び雀(たけにとびすずめ)」は、藤原氏を祖とし公家の流れを汲む紋で、雀はつがいの一対とされる。別名「上杉笹(ささ)」。
柴田

柴田(しばた)家は、尾張国(現在の愛知県)の豪族から出て織田家に仕え、越前国(福井県)などを統治した武家。当主は柴田勝家(かついえ)である。
勝家は信長に一時反旗を翻すも、のち帰順して活躍し筆頭家老となった。朝倉家の討伐後には北陸方面の攻略を一任され、越前に拠点を置いている。信長の死後は、清州(きよす)会議で信長の妹の市(いち)を妻にしたが、後継者問題を巡って豊臣秀吉と対立。賤ヶ岳(しずがたけ)で敗戦後、北ノ庄(きたのしょう)城にて一族と共に悲劇的な最期を迎える。
家紋「丸に二つ雁金(まるにふたつかりがね)」は、鳥である雁(金)を二羽並べた図柄。古くから雁は吉報をもたらし幸運を呼ぶとされる。
九鬼

九鬼(くき)家は、志摩国(現在の三重県東部)を拠点とした豪族。著名な当主に九鬼嘉隆(よしたか)がいる。
伊勢国司・北畠家に仕えていたが、織田信長の伊勢進出に伴い、信長の傘下に入った。熊野水軍をルーツとして、自らも九鬼水軍を率いていた嘉隆は、信長に命じられて鉄の装甲と大砲で武装した巨大な船「鉄甲船」を建造。かつて織田勢が敗北を喫した毛利勢の水軍を、砲撃をもって粉砕して見せた。
家紋「七曜(しちょう)」は、別名「七つ星」とも呼ばれ、その意匠は星に由来する。星の位置を見て航海したであろう九鬼一族に相応しい家紋と言える。
古田

古田(ふるた)家は、美濃国(現在の岐阜県南部)の豪族から出た武家。著名な人物として、通称勘阿弥(かんあみ)で知られる古田重定(しげさだ)、通称織部(おりべ)で知られる古田重然(しげなり)の父子がいる。
勘阿弥は、千利休とも交流のあった茶人。子の織部も、豊臣秀吉に武士として仕えながら、茶人として活躍した。織部は千利休に師事しながらも独自の境地を見出し、ついには天下一の茶人と称された。
家紋である「丸に地紙(まるにじがみ)」は藤原氏系の家に見られるもので、地紙は扇の紙を図案化したもの。扇子は茶人必須の持ち物であり、茶の湯と縁が深い古田家に相応しい家紋と言える。
北条

北条(ほうじょう)家は、相模国(現在の神奈川県)を本拠に関東一円を支配
した武家。主な当主に、北条氏康(うじやす)、氏政(うじまさ)の父子がい
る。
伊勢盛時を祖とする。鎌倉幕府の執権を務めた北条家にあやかって北条を称した。前者と区別するために「後北条」とも呼ばれる。氏康の代に武田家、今川家との甲相駿三国同盟が成立、後背の憂いを絶つと関東で勢力を拡大した。子の氏政の代になっても勢いは衰えず、最大版図は関八州240万石にも及んだが、豊臣秀吉の小田原征伐に敗れた。
家紋「三つ鱗(みつうろこ)」は、鎌倉時代の北条家の家紋を模したもの。初代執権北条時政が大蛇の化身からお告げを受けた際、その大蛇が三つの鱗を残して海に帰ったという伝説に由来する。
三好

三好(みよし)家は、摂津国(現在の大阪府北部から兵庫県南東部)の守護代を務めた名門武家。著名な当主に三好長慶(ながよし)がいる。
長慶は、室町幕府管領である細川家の重臣として、畿内の権力闘争に参画。その勢力は主家を凌駕するほど強大となり、やがては足利将軍家すらも追放して京の支配者となった。
しかし三好家の栄華は長くは続かず、長慶の死によって家中は分裂。新興の織田信長が台頭する一方で、三好家は没落していった。
家紋「三階菱に五つ釘抜(さんかいびしにいつつくぎぬき)」は、二つの紋を組み合わせたもの。上段「三階菱」は菱形を三段積み上げた意匠で、三好家の祖とされる小笠原家の家紋。下段の「釘抜」は、四国でよく見られる家紋で、「九城を抜く」と掛けて武家に好まれた。
武田

武田(たけだ)家は、甲斐国(現在の山梨県)を本拠に周辺諸国を支配した武家。著名な当主として武田信玄(しんげん)、武田勝頼(かつより)らがいる。
信玄は、優れた軍略と精強な将兵によって領国を拡げ、甲斐の虎と称された名将。織田信長と対決すべく西上作戦を企てたが、志半ばで病没した。その子、勝頼が跡目を継いだが、信長の革新的な鉄砲戦術に敗れて滅んだ。
家紋である「武田菱(たけだびし)」は、「四つ割菱(よつわりびし)」とも呼ばれる菱紋のひとつで、甲斐源氏を祖とする全国の武田家共通の定紋。ほかに四弁の花を模した「花菱(はなびし)」も用いられた。
北畠

北畠(きたばたけ)家は、伊勢国(現在の三重県)を治めた高家。著名な当主に北畠具教(とものり)がいる。
代々朝廷より伊勢国司に任じられ、室町時代後期には国司と守護職を兼ねた名門の家柄。8代当主・具教は勢力を志摩国(現在の三重県東部)にまで広げたが、織田信長の伊勢侵攻に屈し、信長の次男・茶筅丸(ちゃせんまる、後の信雄)を北畠家の養嗣子に迎えて和睦、北畠家の血脈は絶たれた。なお、具教は剣豪大名としても知られる。
家紋「笹竜胆(ささりんどう)」は源氏の代表紋とされており、村上源氏の流れを汲む北畠家もこの紋を用いた。
村上

村上(むらかみ)家は、芸予の諸島(現在の瀬戸内海西部)を支配圏とした水軍衆。著名な当主に村上武吉(たけよし)がいる。
武吉は、獰猛で鳴る海賊船団を率いて厳島の合戦に従軍し毛利家の瀬戸内進出を助けたほか、二次にわたる木津川口の海戦で織田信長と戦った。豊臣政権の樹立後、海賊停止令を受けて毛利家と共に秀吉に臣従し、主に水運業を担う家臣団に転じたという。
家紋の「丸に上の字(まるにうえのじ)」は、清和源氏を祖とする村上家共通の定紋。「村上」から、縁起の良い「上」の一字を家紋に取り入れている。武田信玄と抗争した信濃国(長野県)の村上義清(よしきよ)も、同じ家紋を用いた。
福島

福島(ふくしま)家は、伊予国(現在の愛媛県)や尾張国(現在の愛知県)などを治めた武家。著名な当主に福島正則(まさのり)がいる。
正則は豊臣秀吉の遠縁で、早くより小姓として秀吉に仕えた。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いて一番槍を得て以来、軍功を重ねて所領を増やし、ついに大名となった。長年の同僚である石田三成とは折り合いが悪く、溝を深めていくことになる。
家紋である「立ち沢瀉(たちおもだか)」は、秀吉が木下藤吉郎と称していた頃に用いていたもので、植物のオモダカを図案化したもの。オモダカは葉が矢じりに似ていることから勝ち草と呼ばれ、武家にとっては縁起の良い植物とされていた。
藤堂

藤堂(とうどう)家は、伊予国(現在の愛媛県)を主に治めた武家。著名な当主に藤堂高虎(たかとら)がいる。
藤堂家は、もともと近江国(現在の滋賀県)の浅井家に仕える小領主だった。主家が織田信長によって滅ぼされると、高虎は仕官先をいくつも変えながら諸国を流浪。豊臣家に仕えて急速に頭角を現し、大名にまで上り詰めた。
家紋である「藤堂蔦(とうどうつた)」は、蔓(つる)科の植物を模した図柄。木や壁を這って際限なく伸びることから、生命力が強く縁起が良い植物とされていた。主家を転々としながら乱世をたくましく生き延びた、高虎に相応しい家紋と言える。
明智

明智(あけち)家は、源氏の流れを汲む土岐(とき)家の支流で、朝倉家などを経て織田家に仕えた武家。近江国(現在の滋賀県)の坂本や丹波国(京都府中部と兵庫県北東部)などを治める。主な当主に明智光秀(みつひで)がいる。
光秀は信長の重臣として天下統一に協力するも、突如謀反を起こして本能寺を急襲し、信長を討った。しかしその後、毛利攻めから引き返してきた豊臣秀吉に敗北し、大名家としての明智家は途絶えた。
家紋である「桔梗(ききょう)」は、明智家の本流である土岐家が使用し、それを受け継いだもの。摘んだ桔梗の花を兜の前立に差して出陣したところ大勝を収めたため、その縁起をかついだのが始まりといわれる。
丹羽

丹羽(にわ)家は、近江国(現在の滋賀県)などを治めた武家。著名な当主に丹羽長秀(ながひで)がいる。
尾張守護・斯波家に仕えた家柄だが、長秀の代より織田家の家老を務め、柴田勝家と双璧を成す重臣となった。織田信長の死後は、一貫して豊臣秀吉を支持し、越前、若狭、加賀に大封を得るに至るが、間もなく病を得て没した。跡目は子の長重が継いだが、秀吉によって領地や重臣を次々に没収され、丹羽家は勢いを失った。
家紋「丹羽直違(にわすじかい)」は、柱を補強するための「筋違」が由来で、家や城を守る意味があるとされる。ただし、長秀がこの紋を用いたのは、戦場で刀に付着した血を拭き取った際に、布にバツ印のような血痕が残ったから、という説もある。
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