茶室_武家_武家解説 のバックアップ(No.6)


織田

織田

織田(おだ)家は、尾張国(現在の愛知県)を平定後、東海、近畿を次々に制圧し、戦国乱世を風靡した武家。織田信長(のぶなが)が家督を相続後、一代で大勢力を築いた。
信長は急進的な政策や苛烈な兵略を用いたため諸侯に恐れられ、勢力の内外に多くの敵を作り、ついには腹心である明智光秀の謀反により討たれた。以降、遺臣は豊臣家などに吸収され、織田家の勢力は急速に衰えた。
家紋「織田木瓜(おだもっこう)」は、織田家の用いた木瓜紋の意で、別名「織田瓜(おだか)」とも。輪切りにした瓜の断面を図案にしたものとされている。複数の卵を抱く鳥の巣のようにも見えるため、子孫繁栄の兆しとして尊ばれた。

徳川

徳川

徳川(とくがわ)家は、三河国(現在の愛知県東部)を起点に、東日本に大勢力を築いた武家。当主は徳川家康(いえやす)である。
家康は幼少の頃、今川義元(いまがわよしもと)の人質となったが桶狭間(おけはざま)の合戦後に独立した。のち織田家と同盟して武田家を滅ぼすなど東方に勢力を広げ、豊臣家には臣従したものの、武蔵国(東京都と埼玉県)を中心とする大領地を得た。以降、豊臣家に継ぐ勢力と権威を保持し、秀吉も一目置く存在であり続けた。
戦勝祈願の出陣式を行う際、鮑(あわび)、栗、昆布の三品を葵(あおい)の葉に乗せて供物にすると勝利を得られるという縁起から、家紋に「三つ葉葵(みつばあおい)」が選ばれたと伝わる。

豊臣

豊臣

豊臣(とよとみ)家は、本能寺の変後の動乱を制し、天下統一を果たした武家。主な当主に豊臣秀吉(ひでよし)、豊臣秀頼(ひでより)父子がいる。
秀吉は、織田信長に仕え、目覚ましい功績で異例の出世を果たし、地方攻略を一任されるほどの重臣に抜擢される。そして信長の急死後、旧織田家臣を吸収して念願の統一を成し遂げた。秀吉が打ち出した検地や刀狩りは大いに政権を安定させたが、年を経るごとに秀吉の猜疑心が強まり、甥の秀次を粛正するなど非情な一面を見せるようになったため、豊臣家の求心力も自ずと弱まっていった。
家紋「五七桐紋(ごしちのきりもん)」は、皇室の御紋の一種で、朝廷より秀吉に下賜された。左右に五つずつ、中央に七つの桐の花が配置されるためこの名がある。

真田

真田

真田(さなだ)家は、武田家に仕えたのち、信濃国(現在の長野県)東部の上田に本拠を置いた武家。著名な人物に真田昌幸(まさゆき)、真田幸村(ゆきむら)ら父子がいる。
昌幸は、武田家の滅亡に伴って独立を果たし、本能寺の変後の混乱に乗じて領土の防衛、拡大に乗り出す。上杉、北条、徳川の強豪に挟まれながらも剛柔巧みに出方を使い分け、特に徳川家とは激しく対立し禍根を残したとされる。のち次男、幸村を人質として差し出し、豊臣秀吉に臣従を申し入れた。
家紋「真田六文銭(さなだろくもんせん)」は、死者が渡るという三途の川の渡し賃を表し、いつでも死ぬ覚悟はできているという気概を示すものだとされる。

石田

石田

石田(いしだ)家は、豊臣政権の幕僚として、近江国(現在の滋賀県)の佐和山(さわやま)を領地とした武家。有名な当主は石田三成(みつなり)。
三成は、豪族の子として幼少より豊臣秀吉に仕えて軍政面で活躍し、秀吉の天下統一後、奉行職に抜擢された。他勢力からの取り次ぎ役などをこなして秀吉に信任されたが、戦陣での現場指揮を得意とする加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らとは折り合いを欠き、修復し難い確執を生じさせることになった。
石田家の旗印「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」は、万民が一人のため、一人が万民のため尽くせば大吉たる平和が訪れるとの教えを、三成が自らの理念として掲げたものと伝わる。

大谷

大谷

大谷(おおたに)家は、近江国(現在の滋賀県)南部に祖を持つ武家で、越前国(福井県)の敦賀(つるが)を治めた。有名な当主には大谷吉継(よしつぐ)がいる。
豊臣秀吉が近江の長浜(ながはま)に領地を与えられた頃、吉継は雑用役の小姓として秀吉に仕官。その後も中国攻めや賤ヶ岳(しずがたけ)で功を立て、大名として取り立てられ奉行職にも任じられた。同僚の石田三成とは任地で行動を共にする機会が多く、刎頚(ふんけい)の交わりとされるほど絆が強かったという。
家紋「対い蝶(むかいちょう)」は向かい合った二匹の蝶を描いたもの。幼虫から蝶に変貌する様は美しい転生の象徴とされ、病に侵されて衰えゆく吉継の、蝶への強い憧れがうかがい知れる。

加藤

加藤

加藤(かとう)家は、平民より出て豊臣家に仕え、のち肥後国(現在の熊本県)の北部を治めた武家。著名な当主に加藤清正(きよまさ)がいる。
清正は豊臣秀吉に小姓として仕え始め、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで七本槍(しちほんやり)とされる殊勲を残す。以降、秀吉子飼いの将として活躍し、九州平定に参加、肥後半国を与えられて大名となった。長年の同僚である石田三成とは折り合いが悪く、溝を深めていくことになる。
家紋である「蛇の目(じゃのめ)」は蛇の目を模したもの。蛇に鋭い目で見据えられた獲物は動きを封じられるとされ、古代より呪符として使用されてきた図案であるという。

浅井

浅井

浅井(あざい)家は、近江国(現在の滋賀県)北部を治めていた武家。著名な当主に、織田信長の義弟である浅井長政(ながまさ)がいる。
長政は信長の妹・市を妻に迎えて織田家と同盟を結んだ。しかし、長年の盟友である越前朝倉家が織田家と敵対すると、長政は朝倉家に加担。激怒した信長によって、朝倉家ともども滅ぼされた。
家紋「三つ盛亀甲に花菱(みつもりきっこうにはなびし)」は、長政一代が用いた家紋であるとされる。
その由来は定かではないが、亀甲は北方を守護する亀の姿をした聖獣を指すという説もあり、近江北部を支配する長政が、聖獣の加護にあやかろうとしたのかもしれない。

今川

今川

今川(いまがわ)家は、駿河国(現在の静岡県)を本拠に広大な領地を支配した武家。著名な当主に、今川義元(よしもと)、氏真(うじまさ)の父子がいる。
将軍家一門の家柄で、「足利が絶えれば吉良が、吉良が絶えれば今川が将軍位を継ぐ」とされていた。その勢力圏は、駿河、遠江、三河の三国に及び、最盛期を築いた義元は「海道一の弓取り」と称された。尾張に侵攻するも、桶狭間の合戦で織田信長にまさかの敗北を喫し、以降は衰退の一途をたどることになった。
家紋「赤鳥(あかとり)」は、櫛の汚れを取る「垢取り」を意匠化したもの。家祖の今川範国(のりくに)が、「赤鳥と共に戦えば勝つ」との神託を得たことに由来する。

竹中

竹中

竹中(たけなか)家は、美濃国(現在の岐阜県)に領地のあった武家。著名な当主に、竹中重治(しげはる、通称は半兵衛)がいる。
美濃斎藤家の家臣で、斎藤義龍、龍興に仕えた。若年の龍興が酒色に溺れて政務を顧みなかったため、半兵衛は僅かな手勢で稲葉山城を乗っ取って龍興を戒めた逸話が有名。織田信長の美濃侵攻後は豊臣秀吉に軍師として仕え、その智謀から後に「今孔明」と称された。
家紋「九枚笹(くまいざさ)」は、笹紋の一種で笹の葉を九枚並べたもの。家紋の笹は竹と同じとされ、真っすぐ上に伸びる竹は縁起が良いとされる。

前田

前田

前田(まえだ)家は、織田家に仕え、のち能登国(現在の石川県北部)および加賀国(石川県南部)を治めた武家。著名な当主に前田利家(としいえ)がいる。
若かりし頃、槍の又左と呼ばれた利家は、織田家中で刃傷沙汰を興して一時出奔するも、美濃斎藤家との合戦に無断で参陣して武功を挙げ、信長に帰参を許された。その後は柴田勝家の寄騎として北陸方面で活躍。信長の死後、勝家と袂を分かち秀吉に臣従する。豊臣政権下では五大老の筆頭格に上り詰め、加賀百万石の礎を築いた。
家紋である「加賀梅鉢(かがうめばち)」は、前田家の祖先とされる菅原道真(すがわらのみちざね)が好んだ梅の花を図案化したもの。花の中心部には、小型の剣が添えてある。

島津

島津

島津(しまづ)家は、薩摩国(現在の鹿児島県西部)に拠点を置き、大隅(鹿児島県東部)や日向(宮崎県)を支配した武家。主な人物には島津義久(よしひさ)、島津義弘(よしひろ)ら兄弟がいる。
義久らは、伊東家を破って薩摩、大隅、日向の三州を統一後、領土拡大を企図して北上。耳川(みみがわ)で大友家、沖田畷(おきたなわて)で龍造寺家に大勝するが、九州統一の目前で豊臣秀吉の派遣した征伐軍に降伏する。この際、義弘のみは徹底抗戦の構えを崩そうとせず、以後も鬼島津の異名で畏怖されることになる。
家紋は十文字に円を加えた「丸に十字」。鎌倉時代以前に十字を描いて厄除けとする風習が大陸より伝わり、神聖なものとされたという。

毛利

毛利

毛利(もうり)家は、中国地方全域を支配していた武家。著名な当主に毛利元就(もとなり)、毛利輝元(てるもと)がいる。
元就は安芸国(現在の広島県)の小領主だったが、権謀術数をもって勢力を拡大、その手腕から謀神と称される。元就の死後は、その息子たちが養子に入った吉川(きっかわ)家、小早川(こばやかわ)家が毛利本家を支え、孫の輝元の代まで磐石の体制で勢力を保ち続けた。
家紋である「一文字三つ星(いちもんじにみつぼし)」は、家祖が得ていた一品の位階を図案化したもの。また、三つ星には戦神として信仰される将軍星(オリオン座中央の星々)の意味も込められている。

黒田

黒田

黒田(くろだ)家は、筑前国(現代の福岡県西部)を主に治めていた武家。著名な当主に人物として黒田官兵衛(かんべえ)、黒田長政(ながまさ)の父子がいる。
官兵衛、長政は知勇を活かして織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者の下で目覚ましい働きをし、黒田家を指折りの大名へと押し上げた。
家紋である「藤巴(ふじどもえ)」は、藤の花を図案化したものである。官兵衛が敵将の罠に嵌り土牢へ幽閉されていた際、健気に咲く藤の花が獄窓から見えた。この藤の花によって励まされた官兵衛は、一年にもわたる獄中生活に耐え、出獄後に藤を家紋としたのだと伝えられている。

立花

立花

立花(たちばな)家は、豊後国(現在の大分県)の大友家の配下として活躍し、のち筑後国(福岡県南部)の柳河(やながわ)を領地とした武家。著名な人物として立花宗茂(むねしげ)、立花闇千代(ぎんちょ)の夫妻がいる。
宗茂は高橋家に生まれたが、闇千代を妻とし、婿養子に入って立花の名跡を継いだ。雷神と呼ばれた先代、道雪(どうせつ)に劣らぬ猛将ぶりを夫妻力合わせて発揮し、島津家などと激戦を交わした。豊臣秀吉の九州征伐後、筑後に領土を得る。
家紋「抱き花杏葉(だきはなぎょうよう)」は、大友家臣団に多用された紋で、左右一対の杏葉の図案。杏葉は植物で作られる馬具の一種で、大陸より伝来し小粋な飾りとして武家に流行したとされる。

吉川

吉川

井伊

井伊

大友

大友

本多

本多

松永

松永

雑賀

雑賀

伊達

伊達

上杉

上杉

柴田

柴田

九鬼

九鬼

古田

古田

北条

北条

三好

三好

武田

武田

北畠

北畠

村上

村上

福島

福島

藤堂

藤堂

明智

明智

丹羽

丹羽

足利

足利

佐竹

佐竹

宇喜多

宇喜多

朝倉

朝倉

滝川

滝川

蒲生

蒲生

尚

斎藤

斎藤

南部

南部

細川

細川

池田

池田

荒木

荒木

長宗我部

長宗我部

蜂須賀

蜂須賀

尼子

尼子

蠣崎

蠣崎