茶室_武家_武家解説 のバックアップ(No.5)
- バックアップ一覧
- 差分 を表示
- 現在との差分 を表示
- 現在との差分 - Visual を表示
- ソース を表示
- 茶室_武家_武家解説 へ行く。
- 1 (2023-11-04 (土) 20:24:44)
- 2 (2023-11-05 (日) 17:36:52)
- 3 (2023-11-07 (火) 06:43:07)
- 4 (2023-11-11 (土) 23:40:00)
- 5 (2023-12-02 (土) 20:11:21)
- 6 (2023-12-05 (火) 21:40:35)
- 7 (2024-02-04 (日) 06:19:04)
- 8 (2024-02-17 (土) 15:13:42)
- 9 (2024-02-18 (日) 21:02:24)
- 10 (2024-03-17 (日) 01:17:36)
- 11 (2025-02-01 (土) 18:03:45)
織田

織田(おだ)家は、尾張国(現在の愛知県)を平定後、東海、近畿を次々に制圧し、戦国乱世を風靡した武家。織田信長(のぶなが)が家督を相続後、一代で大勢力を築いた。
信長は急進的な政策や苛烈な兵略を用いたため諸侯に恐れられ、勢力の内外に多くの敵を作り、ついには腹心である明智光秀の謀反により討たれた。以降、遺臣は豊臣家などに吸収され、織田家の勢力は急速に衰えた。
家紋「織田木瓜(おだもっこう)」は、織田家の用いた木瓜紋の意で、別名「織田瓜(おだか)」とも。輪切りにした瓜の断面を図案にしたものとされている。複数の卵を抱く鳥の巣のようにも見えるため、子孫繁栄の兆しとして尊ばれた。
徳川

徳川(とくがわ)家は、三河国(現在の愛知県東部)を起点に、東日本に大勢力を築いた武家。当主は徳川家康(いえやす)である。
家康は幼少の頃、今川義元(いまがわよしもと)の人質となったが桶狭間(おけはざま)の合戦後に独立した。のち織田家と同盟して武田家を滅ぼすなど東方に勢力を広げ、豊臣家には臣従したものの、武蔵国(東京都と埼玉県)を中心とする大領地を得た。以降、豊臣家に継ぐ勢力と権威を保持し、秀吉も一目置く存在であり続けた。
戦勝祈願の出陣式を行う際、鮑(あわび)、栗、昆布の三品を葵(あおい)の葉に乗せて供物にすると勝利を得られるという縁起から、家紋に「三つ葉葵(みつばあおい)」が選ばれたと伝わる。
豊臣

豊臣(とよとみ)家は、本能寺の変後の動乱を制し、天下統一を果たした武家。主な当主に豊臣秀吉(ひでよし)、豊臣秀頼(ひでより)父子がいる。
秀吉は、織田信長に仕え、目覚ましい功績で異例の出世を果たし、地方攻略を一任されるほどの重臣に抜擢される。そして信長の急死後、旧織田家臣を吸収して念願の統一を成し遂げた。秀吉が打ち出した検地や刀狩りは大いに政権を安定させたが、年を経るごとに秀吉の猜疑心が強まり、甥の秀次を粛正するなど非情な一面を見せるようになったため、豊臣家の求心力も自ずと弱まっていった。
家紋「五七桐紋(ごしちのきりもん)」は、皇室の御紋の一種で、朝廷より秀吉に下賜された。左右に五つずつ、中央に七つの桐の花が配置されるためこの名がある。
真田

真田(さなだ)家は、武田家に仕えたのち、信濃国(現在の長野県)東部の上田に本拠を置いた武家。著名な人物に真田昌幸(まさゆき)、真田幸村(ゆきむら)ら父子がいる。
昌幸は、武田家の滅亡に伴って独立を果たし、本能寺の変後の混乱に乗じて領土の防衛、拡大に乗り出す。上杉、北条、徳川の強豪に挟まれながらも剛柔巧みに出方を使い分け、特に徳川家とは激しく対立し禍根を残したとされる。のち次男、幸村を人質として差し出し、豊臣秀吉に臣従を申し入れた。
家紋「真田六文銭(さなだろくもんせん)」は、死者が渡るという三途の川の渡し賃を表し、いつでも死ぬ覚悟はできているという気概を示すものだとされる。
石田

石田(いしだ)家は、豊臣政権の幕僚として、近江国(現在の滋賀県)の佐和山(さわやま)を領地とした武家。有名な当主は石田三成(みつなり)。
三成は、豪族の子として幼少より豊臣秀吉に仕えて軍政面で活躍し、秀吉の天下統一後、奉行職に抜擢された。他勢力からの取り次ぎ役などをこなして秀吉に信任されたが、戦陣での現場指揮を得意とする加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らとは折り合いを欠き、修復し難い確執を生じさせることになった。
石田家の旗印「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」は、万民が一人のため、一人が万民のため尽くせば大吉たる平和が訪れるとの教えを、三成が自らの理念として掲げたものと伝わる。
大谷

大谷(おおたに)家は、近江国(現在の滋賀県)南部に祖を持つ武家で、越前国(福井県)の敦賀(つるが)を治めた。有名な当主には大谷吉継(よしつぐ)がいる。
豊臣秀吉が近江の長浜(ながはま)に領地を与えられた頃、吉継は雑用役の小姓として秀吉に仕官。その後も中国攻めや賤ヶ岳(しずがたけ)で功を立て、大名として取り立てられ奉行職にも任じられた。同僚の石田三成とは任地で行動を共にする機会が多く、刎頚(ふんけい)の交わりとされるほど絆が強かったという。
家紋「対い蝶(むかいちょう)」は向かい合った二匹の蝶を描いたもの。幼虫から蝶に変貌する様は美しい転生の象徴とされ、病に侵されて衰えゆく吉継の、蝶への強い憧れがうかがい知れる。
加藤

加藤(かとう)家は、平民より出て豊臣家に仕え、のち肥後国(現在の熊本県)の北部を治めた武家。著名な当主に加藤清正(きよまさ)がいる。
清正は豊臣秀吉に小姓として仕え始め、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで七本槍(しちほんやり)とされる殊勲を残す。以降、秀吉子飼いの将として活躍し、九州平定に参加、肥後半国を与えられて大名となった。長年の同僚である石田三成とは折り合いが悪く、溝を深めていくことになる。
家紋である「蛇の目(じゃのめ)」は蛇の目を模したもの。蛇に鋭い目で見据えられた獲物は動きを封じられるとされ、古代より呪符として使用されてきた図案であるという。
浅井

浅井(あざい)家は、近江国(現在の滋賀県)北部を治めていた武家。著名な当主に、織田信長の義弟である浅井長政(ながまさ)がいる。
長政は信長の妹・市を妻に迎えて織田家と同盟を結んだ。しかし、長年の盟友である越前朝倉家が織田家と敵対すると、長政は朝倉家に加担。激怒した信長によって、朝倉家ともども滅ぼされた。
家紋「三つ盛亀甲に花菱(みつもりきっこうにはなびし)」は、長政一代が用いた家紋であるとされる。
その由来は定かではないが、亀甲は北方を守護する亀の姿をした聖獣を指すという説もあり、近江北部を支配する長政が、聖獣の加護にあやかろうとしたのかもしれない。
今川

今川(いまがわ)家は、駿河国(現在の静岡県)を本拠に広大な領地を支配した武家。著名な当主に、今川義元(よしもと)、氏真(うじまさ)の父子がいる。
将軍家一門の家柄で、「足利が絶えれば吉良が、吉良が絶えれば今川が将軍位を継ぐ」とされていた。その勢力圏は、駿河、遠江、三河の三国に及び、最盛期を築いた義元は「海道一の弓取り」と称された。尾張に侵攻するも、桶狭間の合戦で織田信長にまさかの敗北を喫し、以降は衰退の一途をたどることになった。
家紋「赤鳥(あかとり)」は、櫛の汚れを取る「垢取り」を意匠化したもの。家祖の今川範国(のりくに)が、「赤鳥と共に戦えば勝つ」との神託を得たことに由来する。
竹中

前田

島津

毛利

黒田

立花

吉川

井伊

大友

本多

松永

雑賀

伊達

上杉

柴田

九鬼

古田

北条

三好

武田

北畠

村上

福島

藤堂

明智

丹羽

足利

佐竹

宇喜多

朝倉

滝川

蒲生

尚

斎藤

南部

細川

池田

荒木

長宗我部

蜂須賀

尼子

蠣崎
