佐藤武夫 のビジュアル編集 Top > 佐藤武夫 来歴1899年 名古屋市に生まれる 軍人であった父の転任に伴って幼少の頃より仙台、京都伏見また名古屋ヘと転居した。中学校は名古屋の明倫中学校から北海道旭川中学校、そしてまた山口県岩国中学校へと転校。1917年に岩国中学校を卒業。後年の作品に縁の深い旭川中学校、岩国中学校で多感な少年時代を過ごした。1919年 早稲田大学理工科予科に入学 その年の正月、神楽坂の本屋で見つけた森田洪著『世界の建築様式』に夢中になり、志望を医者から建築家に変更する。以前から見ていた雑誌『建築評論』や『建築世界』に執筆していた佐藤功一、岡田新一郎、内藤多仲、吉田享二、今和次郎などが親しいものに思え、早稲田大学を選んだ。1924年 早稲田大学理工学部建築学科卒業早稲田大学助教授に就任早稲田工手学校講師(兼)佐藤功一建築事務所嘱託(1932年まで) そのデザインの才能を高く評価していた佐藤功一教授の命により、卒業と同時に母校の助教授となる。1922年に没した大隈重信公を記念する講堂の設計にあたって、佐藤功一教授から、実質上の設計担当者として指名される。その後、演劇もできる講堂との要請により坪内逍遥にも薫陶を受ける。劇場史の研究と並行して、当時存在しなかった科学的な音響学を志した。1926年 自らの音響関係論文の第一号「宝塚大劇場の音響学的調査」を黒川兼二郎教授(電気通信科)と共同で『早稲田建築学報』に発表 日光東照宮の鳴竜を調査し「鳴竜現象」を解明 自ら考案した測定装置に入って残響測定を行う1929年 早稲田高等工業学校講師(兼)1930年 アメリカ音響学会からフェローの称号を受ける 日本女子大学教授(兼) 日本音響学会の創立に参画1935年 「オーディトリアムの音響設計に関する研究」により早稲田大学から工学博士の学位を受ける1937年 「防音構造の研究」により日本建築学会学術賞を受ける1938年 早稲田大学教授に就任1941年 日本建築学会評議員(1942年まで)1942年 日本学術振興会第三九小委員会委員(1945年まで)1945年 早稲田大学評議員(1949年まで)終戦直前の3月、戦時下最後の建築「岩国徴古館」が竣工。終戦により中国大陸から卒業生たちが復員、その世話も考えて東伏見の自宅で設計の実務を開始、佐藤武夫設計事務所の原点となる。 東伏見(現:東京都西東京市)の自宅1946年 日本建築学会主記(1947年まで)1947年 日本建築設計監理協会理事(1949年まで)1949年 音響理論の樹立により日本映画技術協会協会賞を受ける 文部省学校建築企画審議会委員(1953年まで)1950年 合資会社佐藤武夫設計事務所設立1951年 早稲田大学教授を辞す岩国市顧間として錦帯橋の再建工事に参画(1953年まで)前橋工業短期大学顧間早稲田大学講師再建された錦帯橋1952年 ユネスコ国際芸術家会議に建築家代表として渡欧日本建築設計監理協会理事(1954年まで)東京建築士会理事(1954年まで)ユネスコ国際芸術家会議では2ケ月に渡り欧州、中東の各地を訪れる。随筆集『薔薇窓』に当時の旅行記が収録されている。 ユネスコ国際芸術家会議出席のため空港で1954年 株式会社佐藤武夫設計事務所設立建設省一級建築士試験委員日本建築士会連合会理事(1956年まで)1957年 日本建築学会会長(1959年まで)建設省中央建築士審議会会長(1959年まで)建設省住宅対策審議会委員(1959年まで)私学出身者として初めて日本建築学会会長となる。在任中は定款の大改正など、会の性格の明確化と組織の改革に尽力。1958年 大蔵省庁舎等調整審議会委員 日本建築学会PR事業委員会委員長1960年 「旭川市庁舎」により日本建築学会作品賞を受ける英国王立建築学会海外名誉会員に推挙される福岡県文化センター競技設計審査委員長旭川市庁舎1961年 日本建築家協会理事(1963年まで)1962年 「新潟市庁舎」により日軽建築賞を受ける 練馬区庁舎競技設計審査委員 新潟市庁舎1963年 黄綬褒章を受章 「長野市民会館」により建築業協会賞を受ける 国立京都国際会館競技設計審査委員 長野市民会館1964年 日本建築学会名誉会員に推挙される栃木県重要文化財本地堂管理審議会委員を委嘱され鳴竜の復元に当たる1966年 「福岡県文化会館」により建築業協会賞を受ける 建設省建築審議会委員 福岡県文化会館(現:福岡県立美術館)1967年 勲三等瑞宝章を受章 NHK放送文化ライブラリー顧問委員 日本芸術院賞の受賞式。前列左より3人目が佐藤武夫1969年 「多年の業績」により日本芸術院賞を受ける建築美術工業協会の設立に尽力し相談役となる日本劇場技術協会の設立に発起人として尽力し初代会長に選ばれる長野県建築設計家協会特別会員に推挙されるNHK代々木放送センター総合整備工事設計委員長委嘱南青山の事務所で後進を指導する1972年4月11日築地聖路加病院で死去アメリカ建築家協会名誉会員に推挙される特旨を以って従四位に叙せられ銀杯一箇を賜わる「城南信用金庫本店」および「北海道開拓記念館」により建築業協会賞を受ける 城南信用金庫本店北海道開拓記念館1973年 「北海道開拓記念館」により日本建築学会作品賞を受ける このwikiはアフィリエイト、広告収入等を目的としてコンテンツを掲載しています。 #br 佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日- 1972年4月11日)は、日本の建築家。建築音響工学の先駆者。 日本建築学会元会長、同名誉会員、日本建築家協会終身正会員、英国王立建築家協会名誉会員。日本芸術院賞受賞者。 オーディトリウム設計の第一人者として、さらに市庁舎、市民会館、公会堂などが彼の数多い作品の中でも圧倒的に数が多い。科学者としての学識、一方で新劇運動に熱中し、劇場史を研究するほどの芸術青年で分離派時代の山口文象をしてまったくシャッポを脱がされた、といわしめたほどのスケッチの名手、作品はその天賦の芸術家の才能と、情熱のぬくもりがあるとされ、また塔も多く、”塔の佐藤"ともいわれるゆえんである。 *来歴 [#w128a4f1] -1899年 名古屋市に生まれる 軍人であった父の転任に伴って幼少の頃より仙台、京都伏見また名古屋ヘと転居した。中学校は名古屋の明倫中学校から北海道旭川中学校、そしてまた山口県岩国中学校へと転校。1917年に岩国中学校を卒業。後年の作品に縁の深い旭川中学校、岩国中学校で多感な少年時代を過ごした。 -1919年 早稲田大学理工科予科に入学 --その年の正月、神楽坂の本屋で見つけた森田洪著『世界の建築様式』に夢中になり、志望を医者から建築家に変更する。以前から見ていた雑誌『建築評論』や『建築世界』に執筆していた佐藤功一、岡田新一郎、内藤多仲、吉田享二、今和次郎などが親しいものに思え、早稲田大学を選んだ。 -1924年 早稲田大学理工学部建築学科卒業 --早稲田大学助教授に就任 --早稲田工手学校講師(兼) --佐藤功一建築事務所嘱託(1932年まで) そのデザインの才能を高く評価していた佐藤功一教授の命により、卒業と同時に母校の助教授となる。1922年に没した大隈重信公を記念する講堂の設計にあたって、佐藤功一教授から、実質上の設計担当者として指名される。その後、演劇もできる講堂との要請により坪内逍遥にも薫陶を受ける。劇場史の研究と並行して、当時存在しなかった科学的な音響学を志した。 -1926年 自らの音響関係論文の第一号「宝塚大劇場の音響学的調査」を黒川兼二郎教授(電気通信科)と共同で『早稲田建築学報』に発表 日光東照宮の鳴竜を調査し「鳴竜現象」を解明 自ら考案した測定装置に入って残響測定を行う -1929年 早稲田高等工業学校講師(兼) -1930年 アメリカ音響学会からフェローの称号を受ける 日本女子大学教授(兼) 日本音響学会の創立に参画 -1935年 「オーディトリアムの音響設計に関する研究」により早稲田大学から工学博士の学位を受ける -1937年 「防音構造の研究」により日本建築学会学術賞を受ける -1938年 早稲田大学教授に就任 -1941年 日本建築学会評議員(1942年まで) -1942年 日本学術振興会第三九小委員会委員(1945年まで) -1945年 早稲田大学評議員(1949年まで) --終戦直前の3月、戦時下最後の建築「岩国徴古館」が竣工。終戦により中国大陸から卒業生たちが復員、その世話も考えて東伏見の自宅で設計の実務を開始、佐藤武夫設計事務所の原点となる。 東伏見(現:東京都西東京市)の自宅 -1946年 日本建築学会主記(1947年まで) -1947年 日本建築設計監理協会理事(1949年まで) -1949年 音響理論の樹立により日本映画技術協会協会賞を受ける 文部省学校建築企画審議会委員(1953年まで) -1950年 合資会社佐藤武夫設計事務所設立 -1951年 早稲田大学教授を辞す --岩国市顧間として錦帯橋の再建工事に参画(1953年まで) --前橋工業短期大学顧間 --早稲田大学講師 --再建された錦帯橋 -1952年 ユネスコ国際芸術家会議に建築家代表として渡欧 --日本建築設計監理協会理事(1954年まで) --東京建築士会理事(1954年まで) --ユネスコ国際芸術家会議では2ケ月に渡り欧州、中東の各地を訪れる。随筆集『薔薇窓』に当時の旅行記が収録されている。 ユネスコ国際芸術家会議出席のため空港で -1954年 株式会社佐藤武夫設計事務所設立 --建設省一級建築士試験委員 --日本建築士会連合会理事(1956年まで) -1957年 日本建築学会会長(1959年まで) --建設省中央建築士審議会会長(1959年まで) --建設省住宅対策審議会委員(1959年まで) --私学出身者として初めて日本建築学会会長となる。在任中は定款の大改正など、会の性格の明確化と組織の改革に尽力。 -1958年 大蔵省庁舎等調整審議会委員 日本建築学会PR事業委員会委員長 -1960年 「旭川市庁舎」により日本建築学会作品賞を受ける --英国王立建築学会海外名誉会員に推挙される --福岡県文化センター競技設計審査委員長 --旭川市庁舎 -1961年 日本建築家協会理事(1963年まで) -1962年 「新潟市庁舎」により日軽建築賞を受ける 練馬区庁舎競技設計審査委員 新潟市庁舎 -1963年 黄綬褒章を受章 「長野市民会館」により建築業協会賞を受ける 国立京都国際会館競技設計審査委員 長野市民会館 -1964年 日本建築学会名誉会員に推挙される --栃木県重要文化財本地堂管理審議会委員を委嘱され鳴竜の復元に当たる -1966年 「福岡県文化会館」により建築業協会賞を受ける 建設省建築審議会委員 福岡県文化会館(現:福岡県立美術館) -1967年 勲三等瑞宝章を受章 NHK放送文化ライブラリー顧問委員 日本芸術院賞の受賞式。前列左より3人目が佐藤武夫 -1969年 「多年の業績」により日本芸術院賞を受ける --建築美術工業協会の設立に尽力し相談役となる --日本劇場技術協会の設立に発起人として尽力し初代会長に選ばれる --長野県建築設計家協会特別会員に推挙される --NHK代々木放送センター総合整備工事設計委員長委嘱 --南青山の事務所で後進を指導する -1972年 --4月11日築地聖路加病院で死去 --アメリカ建築家協会名誉会員に推挙される --特旨を以って従四位に叙せられ銀杯一箇を賜わる --「城南信用金庫本店」および「北海道開拓記念館」により建築業協会賞を受ける 城南信用金庫本店 --北海道開拓記念館 -1973年 「北海道開拓記念館」により日本建築学会作品賞を受ける *作品 [#nd9f6c21] |名称|年|所在地 状態|備考| | |大隈講堂|1927年(昭和2年)|東京都新宿区|重要文化財|共同設計:佐藤功一| |岩国徴古館|1945年(昭和20年)|山口県岩国市|国登録文化財 | | |長崎国際文化会館|1955年(昭和30年)|長崎県長崎市 |現存せず| | |旭川市総合庁舎|1958年(昭和33年)|北海道旭川市| | | |新潟市庁舎(四代目庁舎)|1958年(昭和33年)|新潟県新潟市|現存せず| | |岩国市庁舎|1959年(昭和34年)|山口県岩国市|現存せず|| |文京区総合庁舎・公会堂|1959年(昭和34年)|東京都文京区|現存せず| | |防府市公会堂|1960年(昭和35年)|山口県防府市| | | |ホテルニュージャパン|1960年(昭和35年)|東京都千代田区|現存せず| | |長野市民会館|1961年(昭和36年)|長野県長野市|現存せず| | |矢板市庁舎|1961年(昭和36年)|栃木県矢板市| | | |葛飾区総合庁舎|1962年(昭和37年)| 東京都葛飾区| | | |土浦市旧庁舎(二代目庁舎)|1963年(昭和38年)|茨城県土浦市| | | |旧福岡県文化会館|1964年(昭和39年)|福岡市中央区 建替予定|現福岡県立美術館| | |農協ビル|1965年(昭和40年)|東京都千代田区|現存せず| | |江東公会堂|1965年(昭和40年)|東京都江東区|現存せず| | |新橋駅前ビル|1966年(昭和41年)|東京都港区|解体予定| | |熊本市民会館|1967年(昭和42年)|熊本市中央区| | | |新潟県民会館|1967年(昭和42年)|新潟県新潟市| | | |大津市庁舎|1967年(昭和42年)|滋賀県大津市| | | |土浦市民会館|1968年(昭和43年)|茨城県土浦市| | | |中央区役所|1969年(昭和44年)|東京都中央区| | | |北海道開拓記念館|1970年(昭和45年)|北海道札幌市 | | | |城南信用金庫本店|1970年(昭和45年)|東京都品川区 | | | |岩手県民会館|1973年(昭和48年)|岩手県盛岡市| | | *受賞等 [#t87b3f61] -1960年 日本建築学会賞作品賞(旭川市庁舎) -1963年 紫綬褒章 -1967年 日本芸術院賞[2] -1969年 勲三等瑞宝章 -1972年 アメリカ建築家協会(AIA)名誉会員 ページの更新 通常編集モードに切り替える データ参照プラグイン 入力支援ツールを表示 ▼参照先ページ選択:データを表示 元データの書式(インラインプラグイン)を継承する