恋の話をしていた。
好きなひとがいるの、と言ってしまうと根ほり葉ほり聞かれそうなので止す。厄介なのだ。
持ち主のいなくなった家の荷をまとめている中に、父のものだろうか、母のものだろうか、ひとつの上製本があったのである。表紙は褪せ、わたしより少しおとなに思える。 そっと、鞄にしまった。
帰りの電車で、居間で、布団で、バスを待っている間、休憩中、文字が言葉になって流れ込んで、わたしを揺らす。そうするとまた、段段に、もっと震わされるようになる。
あなたを「ひと」と言っていいのかは、悩ましい。出会いを尋ねられたとして、そこはかつての実家のようでもあるし、触れることのできない場所のようでもある。わたしがあなたを知ったのは、電車のボックス席で、居間で、布団で、バス停で、会社のデスクで、それから、それから、それから。
本を閉じて、人差し指で、その背をなでる。
ここにいるようで、ここにいないあなたをなでるように、指先で触れる。
恋の話をしている。