Jadism

Last-modified: Wed, 08 Nov 2023 15:27:22 JST (192d)
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五玉とは、ヒスイのおおよそ五つの色 (白・黒・黄・赤・緑) に由来する命名であり、英語ではJadismということになる。

 

科学的前提

 

暴れ川は、諸々の治水対策を講じることで安定した水系になる。同じように、(この地球上では太陽に由来する) 不定形な余剰エネルギーは、構造化されることでそのエネルギーを定量的に消費する安定相として持続可能になる (もちろん、そのエネルギーが尽きればその構造も自然に解体する。構造化は部分的なエントロピー減少であり、エントロピー増大という自然則への対抗的持続性は、不定形な余剰エネルギーが構造として具現する形でのみ確保されるからだ)。

 

暴れ川の例自体からも分かるように、自然現象は自発的構造化を形成または志向している。水系循環や大気循環はカオス系的構造化に留まるが、やがては自己再帰的構造化、すなわち「閉じた系」、この地球では生命現象が相当、を産出するに至る。根本的な生命現象である植物の存在理由は、太陽の余剰エネルギーを地球の岩石的様態の分解土砂化へと転化することであり、人間を除く他の諸生命現象は植物の補助のためにある、と見なせる。人間の根拠的な存在理由は地中に蓄積された植物由来エネルギーの解放であってやはり植物の補助なのだが、その副産物として、不可視の領域の構造化という能力を与えられた。哲学とは、この能力を研究する学問なのである。

 

「閉じた系」の認識は、動物においては、その系の持つ余剰エネルギーが自身に取り込み可能かどうかを判定する、という試行錯誤を通じて妥協弁証法的に進化してきたのであるが、それは「自己構造の投影」すなわち擬人化 (擬自化) の発達という形での「観念」の進化なのであった。構造化は物理面でそうであるように観念面でも常に最適化 (ミニマライズ) を志向する。しかるに、観念面においてこの最適化志向が解除されたのが人間に他ならない。人間にこの進化を促したのはイネ科という爆発的かつ長期的に余剰エネルギーを蓄積できる植物系の登場であり (人類史の初期にはイモ類が主要植物だったが、イモ類は水分を多分に含むために長期保存が困難であった。古代中南米文明を含む石器的文明の限界はこれに由来する)、ウマ目の高速移動による広汎化からウシ目による厳重な消化でもなお消費しきれなかったそれが、最後に用意したのがリミッターを解除した内面化で余剰エネルギーを無限大に消費できる人間という脳特化生物種なのである。

 

自然現象における自発的構造化は、妥協弁証法の発現例であり、構造からそれを在らしめた妥協弁証法を推定する方法論が帰納法である。ここにおける「妥協」は余剰エネルギーの相互における配分のやり取りであり、従って総エネルギーは構造化の前後で不変である。一方、人間は不可視領域における構造化を別の「閉じた系」に繰り込む (すなわち「託し具現する」) ことができ、この「追加」構造化によってその系の保持する総エネルギーが増大する。これが「労働」の本質であり、その増大分の余剰エネルギーは、追加構造分を了解することで他の人間の不可視領域へと取り込むことができ、これが労働生産物の「消費」なのである。

 

存在論

 

存在とは、他存在への制約に他ならない。

 

制約の改変不可能に思えることが客観性の由来であり、改変可能に思えることが主観性の由来である。既に過ぎ去った事物の改変不可能性ゆえに、前者はまた過去であり、後者は未来でもある。事物の改変可能性が尽きて改変不可能へと転じる時点が現在である。

 

数式は、それ自体は過去に属しても、それが再帰的に生成する結果は可能性の範疇に留まるので、主観世界・未来世界における客観性の由来となる。同様に、再帰的に自己生成する存在は、未来における客観性を可能性として保持する。

 

主観が過去の制約の編み目を編み直すとき、すなわち目的論的体系のうちに過去の事物を位置づけ直すとき、その事物の意味が改変可能になる。これが預言 (詩) 的再帰、すなわち未来から過去への再帰である。

 

エコグラム

 

五常エゴグラムの関係を見るに、「自我 (A)」を「礼」として、「厳しい親 (CP)」は「義」、「従順な子 (AC)」は「信」、「優しい親 (NP)」は「仁」、「自由な子 (FC)」は「智」に割り当てられる。仁は余剰を分かち合う形、義は条件付きで分かち合う形、智はその条件を見極め義を仁へと転じる形、信はその仁より余剰を得る形、とできよう。礼は余剰の与えも受け取りもない関係の形を示す。余剰は「再帰可能性=未来」の期間限定的安全保障 (契約) の具現化根拠であり、契約は常に、仁と信の間に成立し (他者性・境界線の確認)、義と智によって維持される (甘え合い関係による相互成長の促進)。すなわち、仁を義へと転じるのは契約による「未来への責任性」の発生に他ならない。この「未来への責任性」を学的に明らかにすることで義を安んじるのが智であり、それがエゴグラム経済学すなわち「エコグラム」なのである。

 

智には集積と拡散の二種がある。前者はエントロピーに逆らう形なので、そのことによって余剰を消費してしまう、すなわち、集積の智は余剰を増やさない。後者の拡散はより多数を巻き込む形であり、規模の増大によって余剰を増やす。
義には強制と自制の二種がある。前者は契約によって得られる余剰を先取りする形であり、いわば前借・借金なので、余剰の育成による増大は放棄される。後者の自制は余剰の育成による増大であり、増大した余剰への権利の正当な取得である。

 

エコグラミスム

 

エコグラムを、他者の主観世界を解するための形而上学として拡張するのがエコグラミスムである。

 

仁義礼智信の仁を愛の神あるいは阿弥陀仏、義を裁く神あるいは不動明王、信を信仰とし、仁と信との「契約」により「互いに礼へと至って対等になる」究極目的が生じたものの、信になお留まるものに対し仁は契約履行を迫り義となり、義の圧迫に信は智による抜け道探しで応じる。智は礼をイエス・キリストによって体現されたものとし、義を礼へと流しかつまた信を礼へと至らしめる「道」を模索する。かような模索者にして礼の体現者を目指す人々をエコグラミストと呼ぶ。
仁義は主観世界すなわち未来、智信は客観世界すなわち過去、礼を両者の接続部としての「意識」すなわち現在とする時間把握、仁義仁・信智信は本質的に自己再帰であり、互いの時間領域において「再帰可能性」として「非存在の客観」すなわち「制約」とする理論において、詩は未来から過去への制約、数は過去から未来への制約としておのおの客観足り得る。

 

仁を現人神として、義は士、礼は工、智は商、信は農に割り当てるならば、エコグラミスムな身分社会が形成される。江戸時代以降の日本はしかし、礼を農、智を工、信を商とする正しくない割り当ての上に形成された「非エコグラミスム」な身分社会であることに注意されねばならない (代議制は一般に、農の代表者である地主の集団になる)。工を上位に置くのはマルクス主義的なので、大学などでマルクス主義が信奉された戦後の一時期にたまたまエコグラミスム的割り当てに傾いたのだけれども、もちろんそれは一時的かつ非日本的なものであり、短命的なものでしかない。

 

礼は「契約」であり、選挙とは「再契約」なのだから、「最大多数の最大幸福」という基準に立つ限り、選挙において最大多数である「農」が「選挙期間に限り」礼に迎えられるのは必然であろうし、「最小数の最小幸福」すなわち自己犠牲による国民への奉仕を実践する官が暗黙の再契約対象と見なされるであろうこともまた必然ではあろうが、礼は工であるべきとするならば、基準は「最遠未来の最大自由」でなければならないし、暗黙の再契約対象もまた農すなわち最大多数と見なされなければならない。

 

意味論

 

文脈において、後発要素が先発要素の意味範囲を収束するならば、それは「式の検証的現れ」であり、すなわち「過去記述の文脈」だが、逆に意味範囲を拡散するならば、それは「式の逸脱的現れ」であり、すなわち「新たな式への予感」としての「未来形成の文脈」である。前者が数的文脈、後者が詩的文脈であり、前者は言語学の意味論へ譲るとして、哲学的課題として検討されるべきは後者、すなわち「詩的意味論」であろう。

 

詩的文脈が実際に新たな式をもたらすならば、それは数的文脈への帰還であって、なぞなぞ、パズル、推理小説がこの系に属する。その新たな式がしかし、「かくあり得た過去」にのみ成立するならば、それは述懐であり、過去の一点の永遠への聖化であって、自然主義はこの系に属する。従って、純粋に詩的文脈に留まり続けるものこそは「芸術的文脈」であって、それは一種の「異世界の召喚」なのである。

 

その異世界を、より単純なルール体系によって構築されている現実模倣世界とするのがいわゆるラノベ系である。ルール体系が確定されている以上、新たな式もまたそのルール体系の具現であり、この点で推理小説に類似する (現実模倣世界が現実-アルファなルール体系で得られるものがファンタジー、現実+アルファで得られるものがSFである)。逆に、ルール体系そのものを問いつめるのが純文学であろう。純文学では、現実のルールシステムとは異なるルールシステムに依拠する人物を主人公として、彼のルールシステムを描きつつ、それと現実のルールシステムとの葛藤を描くことで、後者を遠景的・逆照射的に浮かび上がらせる仕組みになっている。

 

詩的意味論のさらなる精緻化を試みるに、最小の文芸として「短歌」を対象としたい; 俳句は歳時記の存在を前提としている点で、一句の独立性は一首のそれに劣る。もっとも、古今和歌集や万葉集が歳時記的なものとして依拠されるならばその独立性は揺らぐのだけれども、短歌は幸い、依拠すべき歌集として金槐和歌集という特異な選択肢を持っている; 特異というのは、それが万葉集や古今和歌集のような模範性を持ちながら、同時にまた「個人歌集」として「そこからの批評的自立が比較的容易」なのだ。金槐和歌集と、さらにパブリックドメインな古泉千樫 (伊藤佐千夫系だが、より自覚的・推敲的な歌人であったこと、すなわち「より自己完結的」なので佐千夫本人よりもこちらを「模範的」なものとして選ぶ) の短歌を分析対象としたい。現代短歌では、依拠する歌集や結社を一つのルールシステムとして提唱しつつ、それと現実のルールシステムとの葛藤を暗喩することで、上記した純文学性を「近代性・現代性」の証しとして標榜するのだけれども、それはこの詩的意味論研究の問うところではない。

 

祖霊論

 

過去の「見習いたい」在り方は未来におけるその再帰可能性を確信させ、世界の仁であることへの確信の通路として崇められるようになる; これが祖霊である。これら再帰可能性の束からなる「かく在るべき世界」が浄土となり天国となって「人工神話」を形成する。この神話への疑義が、世界の義であることを想定せしめ、ここに善悪の峻別が根拠づけられる。しかしこれは「在るがままの世界」それ自体の再帰可能性への確信であって、「かく在るべき世界」の否定に他ならず、後者への確信が取り戻されるためには「悪への赦し」として仁が捉えられねばならない。このようにして、世界は義から仁への「不断の過程」として把握されることになる。

 

帰仏道

 

帰仏道は、極楽往生した者がこの世界へ戻って菩薩業を行うにあたり、その期間をできる限り延ばすための健康法である。和式体操である自彊術31動動画書籍、和式気功 (台湾で発案され、台湾と日本でのみもっぱら普及していることから) と見なせる中華十三式気功太極拳動画書籍 (太極拳他門の、その門の代表動作から成るその他の十三式と異なり、このいわゆる台湾十三式は原初の十三勢 (太極拳の最古名) 理論に厳密に基づき、二つの動作を十三の方向へ繰り返すという特異な型になっており、推手・対練にもそのまま使えるように作られているので、武術的効果も高い)、和式ヨガである真向法動画書籍の、合わせて48動を無量寿経の阿弥陀48願になぞらえたものだ。真向法は初心者ができるようになるには数年かかると言われているので、台湾十三式 (南無) を主とし、身体の不調な部分を随時自彊術で補正しつつ、真向法 (阿弥陀仏) を少しづつ会得していく、という形になろう。

 

価値論

 

剰余価値とは、価値の剰余では無く、価値化された剰余である。剰余の価値化は人間にのみ可能な行為であり、ミルの功利主義論で言う人間的快楽とは従って、この剰余の価値化に他ならない。剰余の価値化は、自由意志においてのみ形成される。不自由意志では快楽原理より効率原理が勝り、既存価値の流用をもって剰余の価値化が代替されてしまうためだ (自由論)。剰余の価値化はゆえに、非効率原理、すなわち弁証法的実践においてしか為し得ない。ミルの代議制統治論はこの弁証法的実践の擁護的原理化なのであり、彼の経済学における「価値の源泉としての分配」の (彼における) 究極の姿なのだ (ミルの論理学体系も経済学原理もこの三書を生み出すための準備に過ぎず、ゆえに彼の哲学は、この三書のみをもって体系化可能である。そしてそれは、西洋マルクス主義=自由社会主義の根源理論体系でもある)。

 

マルクス系弁証法では「量から質への変化」を説くのだが、ミル系弁証法では「妥協的構造化」が重要である。対立する両者が「相互に納得できる妥協点」を見出すことで「契約」が成立し、この契約をもって相互対立は相互協力、すなわち両者の構造的一体化が「条件付きで」達成される。不毛な対立 (葛藤・不満) という「不定形な剰余」をかく構造化すなわち普遍化することで「価値」へと転換することこそは人間的快楽であり、不自由や強制はこの普遍化を中途半端なものにしてしまう点で避けられねばならない。

 

認識論

 

ミルのこの「弁証法による妥協的構造化」は、世界認識のための唯一の方法論に他ならず、私たち、否、すべての「閉じたシステム (系)」は、その系の自己保存のために常時、すなわち、無意識的に遂行している。すべての系は自己保存に「最適」な「世界の構造化」を目論むが、ある系の最適さとその内在諸系の最適さとは利害的に対立するので、その「最適」は妥協的構造化という形でしか「実現」され得ず、ゆえに存在構造はすべて妥協弁証法的、すなわち「契約」的、である。この「契約」の更新に認識者による不定形な剰余の投入を要しない事象が「物質的」事象であり、不定形な剰余の投入を要する事象が「精神的」事象である。

 

唯物論自体の根拠は、コンディヤックの「人間認識起源論」あたりに求めるのが最も簡便であろう (触覚認識を「動作への制約の認識」と見なせば、五玉哲学とほぼ同根であることが理解されよう; 五玉哲学はしかし「触覚的制約」の代わりにより抽象化された、単なる「制約」という語の採用により、数学的客観性や心理学的客観性をも客観認識可能対象として捕捉するのである)。弁証法の前駆としての帰納法論理学もまた、彼の「論理学」に求められる
(言語学的示唆において、スターリン言語学の基礎ともなる)。これに、ジョン・スチュアート・ミルの「功利主義」と「自由論」を功利主義の弁証法的倫理化の手引き、そして「代議制統治論」を帰納法から弁証法への発展の手引きとして会得すれば、唯物弁証法への基礎は整えられた、と考えてよい。

 

唯物弁証法の難所は、量的変化が質的変化を引き起こす、という点であろう。これは端的に言えば「個」から「類」への移行は質的変化をもたらす、ということである。類における個は相互に排斥しすなわち可能な限り広く散らばろうとするが、その斥力が引力へと切り替わることで類としての自らを具現する。これは非生物でも同様である、と考えるのが自然弁証法だ。

 

存在が閉じた体系としての個に自ら気づくとき、その体系の継続のために「周囲への配慮」が生じる。これが、斥力から引力への切り替えの正体だ。周囲への配慮は環境の継続への意向なので、環境を形成する事物は相互に牽制し合い、この相互牽制が類形成にあってはその動因たる引力として観察される。

 

この斥力を義、引力を仁として、物質とはひとつの閉じた体系 (自己慣性的存在構造) とすれば、自身の体系を投影して擬人的に存在を把握することを礼とし、周囲への配慮に安んじる状態を信、周囲への配慮を再構築する状態を智、と配し、五玉哲学を唯物弁証法に基礎づけられる。

 

従来の唯物弁証法では、人もまた物質として人格性を軽視しがちだったが、以上の観点からは非生物でさえ擬人化可能なものは固有の人格を持つ、と見なされ、すなわち礼の対象となるのだから、ましてや生物とりわけ人をや、と言うわけで、物質即人格であるような「環境重視の唯物弁証法」がより在るべき正しい唯物弁証法である、ということになるし、そうなら軍隊的組織やそれに基づく独裁は唯物弁証法の誤解誤用であるとして批判対象ならざるを得ない。

 

科学的である、ということは対象をモデル (図的に了解可能な構造) として把握する、ということであり、そしてそれは一種の擬人化に他ならない。

 

唯物弁証法である以上、個から類への移行は、個の類への吸収ではなく、個と類との矛盾によって相互に活かされる昇華的統合でなければならない。倫理的・美学的にはそれは個人主義と集団主義との共立であらねばならない、ということだ。実存的芸術と民族的芸術とが矛盾的に統合されて、初めて唯物弁証法的芸術を名乗れよう。例として短歌をあげれば、57音的志向や文語志向は民族的であり、自由律志向や口語志向は実存的なのであって、一方が他方を否定するのではなく、それらの両立が目指されてこそ唯物弁証法的短歌になる。

 

俳句は、類が個へと触れる瞬間、すなわち「擬人化の発見」を述べる文芸だが、それ自体は唯物弁証法的とは言えない。自由律は、類から個への逸脱・逃走であって、矛盾の回避なのだから、口語定型こそが真に唯物弁証法的文芸であり、新体詩または口語短歌 (啄木系短歌) こそがそれであり、大衆における根強い人気もその証しと言えよう。口語新体詩はしかしまだ試みられておらず、語彙的には口語定型短歌の延長線上にこそ可能なものであろうから、唯物弁証法的文芸として探求されるべきは、現状では口語定型短歌一択である。

 

プロレタリア短歌は、しかし、口語文語という以前に「大衆に広く愛詠される短歌」であらねばなるまい (おそらく、俳句で使われるレベルの文語は許容されるものと思われる)。ゆえに、プロレタリア歌人にとっての万葉集・古今集・新古今集は、かような歌を集めた「近代秀歌」こそがそれであるべきだ。ここに掲載されている歌をなぜ大衆が好むのか、その解明こそがプロレタリア歌学であるべきである。似非文語は、私に言わせれば「弁証法的に昇華された真に在るべき文語」すなわち「大衆文語」であり、いわゆる「伝統文語」の不完全さを暴くものにすぎない。後者にこだわって前者を拒絶するのは単なる衒学趣味・貴族趣味であって、「死せる文芸生ける文芸より生を奪わんと欲す」ことに他ならない。

 

現状、私において見られる短歌論と俳句論との矛盾は、そのまま、疎外論的弁証法と物象化論的弁証法との未解消な矛盾の反映である、と見なせる。後者の学習がまだ始めたばかりなので、前者をいかに後者に回収すべきか、がまだ私には不明、ということだ。

 

マルクス主義美学の基礎は、ソフィア・リッサの「音楽美学と唯物論」がほど良さそうだ (「芸術家もまた生産者・労働者である」とする視点は既にここにおいて見られる)。スターリンの「マルクス主義と言語学の諸問題」において提示された諸理論と諸観点とを音楽美学構築へと転用した成果であり、その科学的・弁証法的「昇華」への試みでもある。マルクス主義的詩批評は「詩とマルキシズム」、小説批評は「小説と人民」を参照できようが、いずれも英国における詩や小説の歴史を史的唯物論の観点から概観したものであり、個々の作品を分析するものではない。